今日は遅番だった。朝、不安に囚われてしまう。それでグループホームの自分の部屋にいても落ち着かない。話し相手がいないので、それもあってその不安が自分の中で膨らんでしまう。本を読もうとするもそんな状態なのでぜんぜん頭に入らず、Discordでチャットをしようともしたのだけどこんな場合は「書く」ではなく「話す」「語る」ことを求めてしまう。勢い余っていのちの電話にかけようかとも思ったのだけれど、いのちの電話にかけてしまうとほんとうに困っている人がつながらなくなって苦しむことになる……それでどうしようもなかったので早々にグループホームを出て、イオンの開店時間(9時)に行ってしまう。そこで詩を書き、本を読んでいると少しずつ気持ちが落ち着いてくるのを感じて、結局10時くらいになるといつものテンションを取り戻して詩作あるいは読書を続けられたのだった。いっときはLINEで友だちのグループに相談したりもしたのだけれど、それで個別にぼくのところにLINEを送って下さった方もおられてその優しさ・好意が実にありがたく感じられた。ぼくは1人ではないのだ、という事実を噛み締める。こうした孤独を感じた時の対処法をいろいろ考えておく必要があるようだ。
朝の対処法……いま思いつくところでは、やはりDiscordでボイスチャットができればありがたいと思う。日本語か英語かで。不安になるパターンというのは決まっている。つまり遅番の日の朝の空いた時間にいつも不安に囚われてしまうのだ。いろいろ過去に試みたことを思い出した。ネットフリックスのドキュメンタリーを観るとか、今日のようにイオンに早めに行ってそこで本を読んだり書き物をしたりして時間をつぶすとか。clubhouseでルームに入って英語や日本語であれこれ話したこともある。もしくは、それこそ小説や長いエッセイをまた書いてみるのもいいのかもしれないと思った。いや、長編は逆立ちしても(ぼくは根気も集中力もないので)無理なのでいまのような散文詩の延長で書いてみるとか……ただ、問題はそうこうして1人で完結する作業に満足できず「人と話したい」と思ってしまった時の対処法である。それについて、あとになってLINEで他の方から「近所の地活の施設に行ってみるのはどうですか」と薦めてもらったりした。それもいい方法だと思ったので今度困った時(たとえば次の水曜日も遅番で、また朝時間が空くことが予想されるので)試してみたいと思った。散歩をするとか、部屋の中でできるストレッチをするのもよかったのかもしれない。調べる価値はあると思った。デイヴィッド・チャーマーズ『リアリティ+』の原書を読み進めている。とはいえ、チャーマーズの英語はわかりやすいのだけれどさすがにぼくの英語力ではスラスラ読めるわけがなく、順調に進んだとしても1日に3ページも読めれば御の字なのだった。この分だと年末に至っても200ページも読めていないなんてこともありうるだろう。根気強く読み進める……そこでチャーマーズがクオリティ・オブ・ライフ、つまり生活(人生)の質について語っているのに興味を抱く。とはいえ、難しい話ではなく「どう生きればよりよい人生と言えるか」「より幸せな人生と言えるか」という倫理学的な話だ。ぼく自身、このことでアルコールに溺れていた時「酒抜きの人生は不幸だ」「酒を呑んで何が悪い」と思い込んで生きていた。いま、ぼくは180度(あるいは360度)違う考え方を採っている。自分の生き方として、酒に呑まれた孤独な人生、人を裏切り続ける人生にサヨナラして人との信頼を取り戻し、人に(ある意味では)よりかかりながらどう「共生」していくか、「共に生きて」いくかを考えたいと思い始めている。今日のような孤独に囚われた時、その孤独をどう酒に逃げたりせず紛らわせていくか。ここ最近、夏目漱石に関心が向かって『吾輩は猫である』や『こころ』を読み返したいと思い始めている。あとは前々から気になっていたハイデガーの『形而上学入門』『ニーチェ』をかじってみたいと思ったり(もちろん、専門的に哲学を学んだ人間ではないので理解できる自信なんて「これっぽっちも」ありません)。そして先に書いたチャーマーズの『リアリティ+』を読んだり。何ら戦略も計画もなく興味の赴くままに読んでいるだけなのだけれど、それをいまこの地点から客観的に眺めてみると結局「この世界とは何か」「この人生とは何か」「どう生きたら幸せと言えるのか」といった根源的な問いを問いたいのかなとも思った。ただ、その一方でぼくの中には日々の些細な出来事そのものをできるだけしっかり楽しみたいという気持ちもある。過去、村上春樹にハマり抽象的なことを考えていた時に日々の移ろい(この時期だと敬老の日が訪れたとか、残暑が相変わらず厳しいとか)に目が向かず、今日が昨日の繰り返しのように感じられて生きるのがつらいとさえ思っていたりして……今は違う。今日は新たな1日であり、ならばつねに訪れるそんな新たな1日を祝福して生きたいな、というのが素朴な実感なのだった。