跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/07/29 BGM: TM NETWORK - Get Wild

昨今、ビッグモーターのニュースが気になっている。ぼくが知っているのはメディアから流れてくるというか「漏れてくる」程度の情報でしかない。だから「断定」を可能な限り避けて注意深くそうしたニュース報道に触れなければならないのだけれど、公のスペースの街路樹を見栄えが悪いという理由で薬剤で枯らしたりしたというのは(これはビッグモーター側も認めていることのようだが)それだけでタフなスキャンダルそのものだ。「氷山の一角」という言葉があるが、この出来事の背景にあの企業の「ブラック」な体質を読み取りたくなってくる……と書くとすわ「ビッグモーターは『ブラック企業』だ。さっさと潰せ」という意見につながる。いや、ぼくだって企業利益を追い求めるあまりこんな前代未聞の行いをしてしまうような集団は「正気」すら疑ってしまう。だが、だからこそ慎重でなければならないと(とことんひねくれ者の)ぼくは考える。彼らが「正気」を失っていたと仮定するなら、ならそれはただの「一部の人」「ぼくらとは関係ない人」の「明日なき暴走」と片付けて終わっていいものか……と書くとなんだか「アウトローの集団・軍団」が起こした「理解不能」な事件について記しているようだ。ぼくは自分の筆が暴走するのをセーブしながら書く必要がある。

ぼくも一応は勤め人である。そしてもっと明かせる範囲まで明かすと、ビッグモーターと同じような「顧客」「カスタマー」にサービスを供する仕事をしている。ゆえに、ぼくの仕事ではぼくのエゴ(私利私欲、というやつだ)を捨ててそうしたお客様にサービスを施すことが求められる。別の言い方をすればそうして(宗教的な言葉になるが)「利他」の精神で人にサービスを提供することが回り回って自分のためになるという真理を信奉することが求められる。これはまったくの想像から書くことを断っておくが(したがって積極的な「異論」「ブーイング」を歓迎したい)、ビッグモーターにしても「理想的な企業イメージ」として「落ち葉が落ちていないクリーンなお店」に象徴される「パーフェクトな施設」というのがありえたのではないか(ぼくはつい「水清ければ魚棲まず」なんてひねくれたことを考えてしまうが)。それはそして「汚いお店には人は来ない」というイメージから来たのであり、きれいなお店を追い求めることが「お客様を呼ぶため」であり「利益へとつなぐため」という発想もあったのかもしれない。少なくともまったくもって「お客様」に与えるイメージについての思考を停止して、「自分たちのエゴのためだけ」に除草剤を撒いたとはぼくは考えられない。

いや、もちろん「ビッグモーターは『お客様』のために除草剤を撒いたのだから許してあげましょうよ」なんてことは口が裂けても言わない。だって、その「お客様」が住む土地の持つ貴重な景観を構成する街路樹を「枯らした」「破壊した」ことは(子どもでもわかる理屈だが)明らかにその「お客様」にとってマイナスでしかない。れっきとした違法行為・破壊行為だ。だが(ぼく自身、今書いていることが「想像に想像を積み重ねた」次元の「妄想」だということを断るが)、彼らが自分のエゴつまり自分の懐を潤すためにあんな暴挙をしたというのではなく「お客様」のためにしたのだと仮定するなら、このことは「カルト的」という相貌をも呈してくる。ぼくは宗教的なことにはぜんぜん詳しくないのだけれど、まさにオウム真理教の信者たちが(「尊師」「ボス」だった麻原彰晃の思惑はどうであれ)俗世の人々を「救済」したいという崇高な「良心」に基づいてサリンを撒いた、そのことを思い出させられるのだった。自分より高位に位置する理想・夢想・妄想……何と言ってもいいがそうした「自分を超えた」もの、「自分が準じなければならない」ものが持つ「魔性」「危険性」に、ぼく自身「他人事」「ひとごと」とは思わずいま一度気を配る必要があると思う。

だが、「そんな『理想』捨ててしまえ」ということもぼくは言いたくないのだった。ここからさらに話が込み入ってくるのだけれど、今回のことだけに限って言えば結局は「自分の集団の『理想』が暴走すること」をどうやって止めるかが問題だったと言えるのではないか。ぼくに言えるとしたら、その「理想」とは一方では「私利私欲」が挙げられると思う。「銭儲けに目がくらみ」というやつで、これはある意味わかりやすい。だが、もう一方で考えられうる「利他」「他人のため」という大義名分が「暴走」するとしたら。なら、その「暴走」をどこかで食い止めなければならない。ゆえにぼくから考えられるのは(ぼくは結局「下っ端」「ペーペー」の従業員でしかないのでぜんぜんアクチュアル・効果的な処方箋ではないが)「他者」の「オルタナティブ」な視点(それが「コンプライアンス遵守」だろう)を取り入れ凝り固まった自分たちの考え方を相対化させる契機を得ることだと思う。平たく言えば「それ、おかしいんじゃないか?」という意見(ツッコミ)を許容する空気を熟成させて、人がフットワーク軽くさまざまな意見を言いやすくすることだ。いや、それこそが「無理ゲー」だったはずだとニュース報道を見ていると思えるので、このことは実にぼくにとっていい「他山の石」になっている。