跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/01/15 BGM: Scritti Politti - Wood Beez

明日、市の国際交流協会が主催するオフラインミーティングがあるというのでそれに参加してみたく思っている。その機会において、ぼくはいったい何を話すべきか考えあぐねている……いま勤めている仕事について、そしてどうして英語を学ぶかについては話せたらなと思っているのだけれど、でもそこで「実はぼくは発達障害者なんです」という事実を切り出すべきか否か。それを迷っているのだった。容易に見えるように、これはとても繊細な話題なので慎重に決めてかからないと火傷を負ってしまうことは想像できる。その程度の「空気読み」はできるつもりなので、だから「まいっちんぐ」なのだった。

いつもぼくは自分の発達障害をオープンに、あけっぴろげにしている。というのは、もうぼくにとってはその発達障害も自分を構成する・形づくる要素の1つとなってしまっているからだ。でももちろん、この日記で何度も何度も書いてきたように発達障害はあくまで1つの要素。決して「メイン」ではない。ぼくは自分は実に「単細胞」な人間と自負するが、同時にたくさん読んできた本が教えてくれたように一般論として人はたくさんの要素を内包した存在である。それこそが多様性という言葉・概念の意味のキモだとも信じる。

ゆえに、ぼくはこの発達障害についてできるかぎりカジュアルに切り出したいなあと思っている。少なくとも、いまぼくが発達障害のことを話すと何となくそこはかとなく悲しい雰囲気(いわば悲劇的な空気・ムード)が生まれるのが気になっている。「発達障害者で、こんなみじめに生きなければならない。尊厳をくれ、権利をくれ、ついでに金と女をくれ」なんて。でも、強調しておかないといけない。いまは、まあリッチでもなければハンサムでもない人間なのだけれど、それでも幸せに生きられているのだった。

別の観点からこの話題について見てみよう。ぼくが参加するミーティングはそもそもそんなシリアスなものじゃなくて単に「歓談」「おしゃべり」の場なのだった。だからぼくはムードを楽しみたい。そこでそんなに「多様性を! もっと真剣に考えましょう!」なんて話をしたいわけではない。ぼくは「人はいつも(つまり24時間・四六時中)多様性について考えるべきだ」なんて言わない。言えるわけがない。そんなことは理想的すぎて気持ち悪い(非現実的すぎて、もうファシズムの域に入ってしまっているとさえ思う)。どう1人のメンバーとして、楽しい雰囲気づくりに貢献したらいいか。どう場に入れるか。そんなことを考える。

今日はそんなことを考えてしまった。1人の人間として、1個のピースとして、グループにおいてどうその場作りに貢献していき、場を盛り上げるか。そうやって「自分は1個のピースだ」「1人の人間として場作りを心がけたい」と考えることが謙虚さの始まりなのかなあ、とも思う。言い換えれば有名な「1人はみんなのために、みんなは1人のために」ということかなとも。こう考えることは実にスリリングで意義深いと思う……ああ、肝心の「今日何があったか」を結局書けないまま終わってしまった!