跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/07/04 BGM: Survivor - Eye of the Tiger

ぼくは男として生まれてきた。今は多様性の時代であり、「男らしさ」「マッチョイズム」といった神話・迷信がどんどん解体されている時代である。それはそれでいいことだと思うのだけど、それでもぼくの中を見つめてみるとどこかで「男のロマン」というか「(へなちょこでエッチなこのぼくなりの)男の意地」というのがあるみたいなのだ。少なくともぼくはぼくの中にある「男らしさの呪縛」というものから解放されたという気はしない。女性と一緒にいるとその女性を「リード」して「守る」必要があるとも感じてしまう(つまり、ぼくはなかなかそうして女性を「導く」「従わせる」という考え方から自由になれず、「コラボ」「共同作業」で何かをやるという発想に至らない)。それがぼくという人間のガンコさゆえの限界なのかなとも思う。だからぼくはつねづね「ぼくはフェミニストではない」「フェミニストだと思ったことは1度もない(もちろん、「そうありたい」と努力しているけれど)」と言っている。ぼくは鈍感な「オヤジ」に過ぎない。その自覚があるからこそ自分の価値観をバージョンアップしたいと思って頑張っているのだけれど、果たしてそれはうまくいっているだろうか。

ぼくの中のそうした「男の意地」について、ここ最近考えている。思えば断酒に踏み切ったのだってそうしたぼくの中のなけなしの「男の意地」が可能とさせたのだった。もしくはぼくが生きる発達障害について、逃げずに自分の一生の問題として前向きに取り組もうと考えるようになったのもそうした「男の意地」からかもしれない。英語を虚心に学び直す決意を固めたのも、この町と世界をつなぐ「橋(ブリッジ)」のような人間の1人になれたらと思い始めるようになって未来を夢見るようになったのもぼくの中の「男の意地」があってのことだ……やれやれ、今日の日記はほんとうに時代遅れというか石器時代的な、つまりはガンコなマッチョイズムに侵されてしまっている。汗顔の至りだ。でも、ぼくは傷つかずにスマートに洗練された生を生きるということができない。ぼくは傷だらけになりながらこの人生をカッコ悪く、「転がる石のように」生きるしかない。時に汗まみれになりながら、不格好に、笑い者にされつつ(子どもの頃から笑い者になるのには「慣れている」つもりだから)。

ぼくはへなちょこな人間であることを隠したいと思わない。でも、どこかで「負けたくない」「くたばりたくない」とも思っている。「勝ちに行く」、と……それはぼくがずっといじめられっ子として生きてきて、教室の中でやりこめられて、自分の尊厳・プライドをズタズタに傷つけられて暮らしてきた中で培われた「男の意地」からなのかなとも思う。ぼくは腕っぷしも強くないし、運動だってぜんぜんできない。肉体的な意味での「マッチョイズム」「男らしさ」は持ち合わせていない。ただ読書と音楽を愛する「文化系」の中年でしかない……でも、そんなぼくだって心のどこかで「マッチョなファンタジー」に溺れる趣味を持っている。誰かが見せる男らしさ・男臭さに惚れる気持ち。北野武が彼の映画で見せたような無骨なキャラクターに惹かれてしまったり(この時期だと『菊次郎の夏』が思い出される)、あるいは『ロッキー』を見直してシルベスター・スタローンの戦いぶりに(あんなボクシングは絶対「ありえない」「嘘っぱちだ」とわかっていても)号泣してしまったり。そうして、昨日書いた磯野真穂・宮野真生子『急に具合が悪くなる』の2人に倣って人生という試合に「勝ちに行こう」と思って生きているのだった。

今日は早番だった。仕事がはねた後、英会話教室に行く。今日は旅行について話す。先生方の旅行の面白エピソードについて、そしてぼくたち生徒が考える日本の観光名所や危険な場所についてや、ひとり旅のメリット・デメリットについて……今日も有意義な授業だった。だが、気になることがあった。それはある参加者の方が始終日本語で話をするばかりで、なかなか「彼女の英語」を披露しないことだった。これじゃ何のためにこの場があるのかわからない。先生方だって忙しい中で資料を作り、内容を練ってぼくたちのために楽しい時間を提供して下さっている。他の方だってなかなか日常生活で英語を話せる機会がないからこの時間を心待ちにしておられる。のに、そこでシャイになるのかそれともやる気がないのか……いずれにせよそうして日本語の世界に安住してしまっては端的に「もったいない」と思ってしまう。今回のレッスンでそんなことを思った。来週もその方がそうして日本語に留まる姿勢で臨まれるようならぼくも「ガツン」と「一撃」……とまでは言わないにせよ、「ソフトに」「やんわりと」言ってみるべきかなと思った。