跳舞猫日録

Life goes on brah!

2022/05/31

私は自分はコミュニケーションがヘタだと思っている。なかなか他の人のようにうまくトークを転がすことができず、人を説得して導くこともできない。リーダーになるなんてとんでもないことだ。それでも、DiscordやMeWeでグループを作ったら人は参加してくれる。ありがたいことだと思う。オードリー・タンを思い出す。彼女もまたコミュニティに積極的に参加し、彼女の詩やアイデアをシェアして貢献し盛り上げようと試みていた。そんな精神を大事にしたいと思う。私がシェアできるのは日記や発達障害についての個人的な情報くらいなのだけれど。

ウィトゲンシュタインの哲学にまた興味が戻ってきている。『哲学探究』を読み返してみようか……当たり前とされる、言葉を通してコミュニケーションを行えている事態をウィトゲンシュタインは疑う。私たちは言葉のどこに反応してそうしたコミュニケーションを成しえているのか、そこに着眼して彼は論じる。それは私も共感できる。私も定型発達者の言葉をついに理解できず、何度も苦しい目に遭ったことがあったからだ。ウィトゲンシュタインもまた自閉症者だったと言われているという。だから共感できるのかもしれない。

最近、「サリーとアン課題」について考えていた。この課題は自閉症者が人の気持ちを察して理解するのが苦手であることを証明するものだ。『グッド・ドクター』でも自閉症者のコミュニケーションの特異さが浮き彫りにされていた。思ったことをそのまま口にする(がゆえに、その言葉が相手にどう響くかを想像しにくい)という特性。私もさんざん苦労して、自分の言葉がどう響きうるか考える癖がある程度まではついたと思う。言葉は難しい。時には「沈黙は金なり」であるとも言えるからだ。どうすればもっとうまく自分の気持ちを伝えられるのだろう。

夜、青山真治『空に住む』を観る。透明感溢れる映画だと思った。青山真治に関しては苦手意識があった。『ユリイカ』は掛け値なしの傑作だと思うのだが、彼にとってさえもあの映画は空前絶後だったようで他の映画に『ユリイカ』を貫いていたマジックを見い出せなかったからだ。『空に住む』は女性たちの映画であると思った。青山真治という人はマッチョイズムをどう自分の中で処理していたのだろう、とも思う。批評眼を持つ彼が自分のマッチョイズムに無頓着だったとは思えない。意外とフェミニンな感性の持ち主だったのではなかっただろうか。