跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/06/25 BGM: コトリンゴ - 悲しくてやりきれない

今日は休みだった。カレン・チャン『わたしの香港』を読み終えたので、インスタグラムに寸評と写真をアップロードして(これはぼくの中の上半期、いや今年1年の「ベストブック」の1冊に入ると見た)そしてそれを図書館に返しに行く。そこでぼくは、ジャンヌ・シオー=ファクシャンという人が書いた『大人のギフテッド』という本と出くわす。読んでみると訳文がやや不自然で読みにくいが、それでもぼくが関心を持っている分野をフォローした1冊であるという印象を抱いたので借りることにした。ちなみに、ぼくは前にWAIS-IIIの検査を受けた時にIQとして121という数字を提示された。ギフテッドとはIQ130以上の人のことを言うらしいので、つまりぼくはギフテッドではないことになりその定義からも外れる……のだけれど、ぼく自身が生きづらい思いをしているのはたとえ定義にそぐわないにしてもそうした「(あくまで相対的な)高知能」から来るのかもしれないと思ったので、ならこの本から謙虚に学ぶことの意義は大きいと考えたりもしたのだった。果たしてどうなるのだろう。

アメリカのあるDiscordユーザーから、「日本人は学校でMXY-7について学ばないのか?」といった質問をもらった。ぼく自身、そのMXY-7が何なのかぜんぜん見当がつかなかったので調べたら太平洋戦争当時のゼロ戦と関係があるらしい。その彼に「日本の学校では古代から歴史を学んでいくから学期のおしりの方で戦争を学ぶことになって、駆け足になる。だからどうしたってゆっくり学ぶことはできないんだけれど、でもその代わり日本の優れたアーティストが戦争についていろんな作品を著しているみたいだ。片渕須直監督『この世界の片隅に』ってアニメがあるよ」といったことを話した。すると彼はさっそくその『この世界の片隅に』を見てくれた。そして、感動したとメッセージを送ってくれた……実にいろんなことを考えさせられた、と。いや、単に「So What?(ま、そんなこともある。で?)」な話である。でもぼくはせっかくなのでこうした小さな「国際交流」の果実について書いておきたいと思った。それでぼくもまたあの映画の主人公のすずさんに会いたいと思い、舞台となった呉を訪れたいと思ったのだった。また時間が取れたらネットフリックスで見てみたい。

昼寝をした後、ふたたびイオンに行く。そしてそこで英会話教室の宿題を仕上げようとするもぜんぜんうまくいかず、提出期限までにはまだ余裕があると思い読書をしようとしてぼくの愛聴盤であるモーマスの『ヴォイジャー』を聴きながら『大人のギフテッド』を読んでみたり、唐突に三島由紀夫仮面の告白』をめくってみたりする。三島『仮面の告白』は最近ぼくが書き始めた回想録に役立つならと思ったからまた読んでみようとも思ったのだった。そしてふと「すっかりぼくもいい歳こいた『おっさん』になっちゃったな」と思う。時代は2020年代なのにぼくは1990年代を、さながら「終わらない思春期」(斎藤環)を生きるかのように生きている。聴く音楽にしたってブラーだったりビースティ・ボーイズだったり、読む本にしたって村上春樹ポール・オースターだったり……今書いているぼくの回想録『さよなら天国』にどれだけ価値があるか、ぼくにはぜんぜんわからない。ただ、なんにもしないで日々を生きてそして死ぬのもつまらないと思い、書いてみているのだった。ぼくなりの「恋とマシンガン」な毎日についてを。

夜、ミーティングに参加する。そこでアメリカのホームドラマ『コスビー・ショー』を字幕無しで見ながら、いったい彼らは何を話していてこのドラマは何を伝えようとしているのかをあれこれ話し合う。ふとそこから、「悲しみに暮れた時、皆さんはどうやって解決させますか」という話題で話が盛り上がった。悲しい時……かつてのぼくなら一目散に酒を買い込み、それを浴びるように呑んでいたことを思い出す。それはつまりある意味でぼくの脳のリセットボタンを押すことだ。でも、パソコンやスマートフォンを使った人ならわかるようにそうしてシャットダウンすることは確実に負担がかかる。今のぼくは、「とにかく時間に任せよう。時間が解決してくれる」と自分に言い聞かせる。そして、映画の1本でも観ようと思う。愉快なコメディを観るなり、あるいは逆に思いっ切り鬱な映画を観てみたり。小津安二郎を観るかもしれないし、それこそさっきも書いた『この世界の片隅に』を観るかもしれない。今お世話になっているロシアのビクトリアさんとも、こうした手軽なライフハックについて語れたらいいなと思った(ロシアから安易に連想して、タルコフスキーの映画を観るのもいいかなともふと思ってしまった)。