跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/05/09 BGM: Jesus Jones - Right Here Right Now

今日は否応なしに年齢を意識させられる日だった。朝、Discordで年齢が話題となったので私が正直に「今年で48」と語ると皆驚く。こうしたチャットツールを使いこなして英語や日本語を学ぶ人は若い人が多いみたいだ。あるいはそれ以前に、Discordを使いこなしゲームや映画に興じるユーザーはそもそも若い人が多いとも言えるのかもしれない。どっちにしても、そういう若い人から見れば私のような人間は「古参」の「おっさん」なわけで、もちろん人間生きていれば必然的に加齢・老化を経験するものではあるとは言えショックを受けたのもまた事実なのだった。世間一般的に見て50代近くといえばもう会社では重要なポストに就き、家庭を盤石に築きそろそろ自分の人生の終わりを見越していろいろ考える年齢なのではあるまいか。少なくとも今のこの私のようにその日その日の暮らしを「まったり」楽しみ、実にいい歳こいて読書だ英語学習だと大騒ぎする(やってることは結局英語で日記を書きチャットをするだけでしかないのだが)なんて人間ではないだろう。ああ、なんという人生だ。

今日は人から英語を褒められる一幕もあったのだけれど、私は自分の英語に関して「これでいい」と思っていない。むしろ書けば書くほどボロが出るというか、書いても書いてもなくならないアラに改めて打ちのめされる。ああ、13の年に初めて学校で英語を学び始めて、そして大学では翻訳に興味を持っていたこともあったため英文学さえ学んだりしたものだったがそれでも、そんな足掛け30年の英語学習を経たとしても(むろん、途中に長いブランクを挟んでいることもまた事実だが)英語は果たして上手くなっているのやらどうなのやら。ある信頼できる方は「毎日確実に上手くなっていますね」とおっしゃったが、こればかりは自分でどうこう判断できるものではない。私はただ、「凡事徹底」の心意気で日々地味に英語を使いそして学ぶことに務めるだけだ。練習そして練習。結局そうした地味で「泥臭い」「土臭い」努力、パッとしないカッコ悪い努力こそが少しずつ自分自身を育ててくれるのだと信じている。

あまり批評家あるいはコメンテーターぶったことを書けるほど私の学識は豊かではないのだが、私の英語がこのキャリアにもかかわらず未だにヘタクソなのは単純に「使う機会がない」からなのかなとも思う。英語は座学ではない。独りぼっちで学んで完結するものではなく、それが言語というコミュニケーション・ツールである以上は誰かとのコミュニケーションを通してこそ向上するものである……と難解に書いてしまったが、要は私は過去に学校でも実生活でも、もっとしゃべったり書いたりして英語を使いこなすべきだったということだ。それは単純に学校の英語教育がひどかったという問題として落とし込んで解決するものでもあるまい。仮にそれが正しかったとしても、当時学生だった私自身の中には確実に「そりゃ英語を話せたらカッコいいけれど、でもしくじって恥をかいたらどうしよう」と恐れて二の足を踏む恥じらい・シャイネスがあったのではないか。そんな自分の殻を破ってもっと打ち解けて話す機会を「つかみ取る」くらいの気概が必要だったのかもしれない。あるいは、今であってもそんな気概は必要かなと。

そして今……7月で48になるのだけれど、「私は近頃、誰しも人は少年から大人になる一期間、大人よりも老成する時があるのではないかと考えるようになった」(「風と光と二十の私と」)と書いた坂口安吾のひそみに倣って書くと、人は時に中年を迎えたとしても「子どもよりも若くなる時」だってありうるのではないかと考える。今の私自身がそうだ。学生の頃は48歳というとすでに完成された人間というイメージがあった。年相応の成熟を迎え、人間的な円熟に達し「落ち着いて」「明鏡止水の心」で生きているものだ、と。だが、実際にこうなってみると私は円熟・完成どころか日々実にせわしなく読書や音楽鑑賞に耽り、若い女性のユーザーたちと出会うと鼻の下を伸ばしてしまったりしているのが現実だ。でも、昨日も書いたが「セ・ラ・ヴィ(人生そんなもの)」ではないだろうか。どうせならこのまま私は、心穏やかな老後に向けてなんてことは考えずチャールズ・ブコウスキーのように「不穏」な老成を目指したいとも思ったりしてしまう。永遠に転がり続ける「アナーキーなクソジジイ」(伊集院光)目指して。