跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/05/07 BGM: Sex Pistols - Holidays In The Sun

ああ、時の流れに身をまかせ……時間はあまりにも早く過ぎ去る。こないだまで寒波到来で雪に足を取られて大騒ぎだったというのに、気がつけば日々は少しずつだけど確実に暑くなってきている。今日は休みであり、「あいにくの雨」だった。蒸し暑く感じられたので、私の本能がサジェストするままにいつものイオンでの読書タイムで今日はレゲエを聴く。昨日聴いたオーガスタス・パブロや、あるいはキング・タビーボブ・マーリー……ジャンルで言えばロックステディやダブだ。だが、読書がはかどらない。しょうがないのでたまにはリアルで本と出会えないかと未来屋書店を冷やかしに行くと、坂本龍一『音楽は自由にする』が売られていたのでそれを買った。さっそく読み進める。「追悼」と記されたキャッチコピーに、もうこの「教授」の音楽を聴けないことを思う。だがなにはともあれ時はまたたく間にすぎるのだった。立ち止まってはいられない。そろそろ私にとっての永遠の夏のクラシック・チューン「サマージャム’95」を聴くべき時が来ているかもしれない。

『音楽は自由にする』を読み、坂本龍一という人の謎めいた人間的魅力、そのカリスマ性について改めて考える。私は、彼は世界/時代を牽引した存在だったと受け取る。だが、この本を読む限りでは彼はそんな「天才」だったにも関わらず強烈に「オレがオレが」と自己主張し暑苦しく自らを語るゴーマンさが感じられないのだった。むしろYMOの一員として表舞台に立ち名を成したことも、大島渚ベルナルド・ベルトルッチとの仕事をこなして世界に名をあまねく広めたことも単なる「成り行き」としてであったかのようで、天才としての栄光を恣(ほしいまま)にして生きたというわけでもなさそうだ。かといって努力を地道にこなし続けて堅実に生きている人間が持つ泥臭さ・土臭さも感じられない。自然体、と言えばここまで「柔能く剛を制す」生き方を貫いて生きている人もそう居ないと思ってしまう。だからこそここで語られる言葉があらゆる「権威」「高み」からではありえない、「タメ」な立場から響くものとして感じられる。いいものを読んだと思った。

そして、はばかりながら坂本龍一とこの私との共通点についても考えてしまったのだった。私自身、子どもの頃に「大きくなったら何になりたい?」と訊かれて坂本と同じくまったく答えられなかったことを思い出す。私は時間をまたいで未来について考えることが苦手なのだった(だから下手をすると明日のことさえロクにプランを立てられない)。時間感覚がバグっているのだ……あるいは、坂本が語る彼自身の半生に私自身の半生を重ね合わせてしまう。なぜ私はあろうことか、早稲田大学なんてところに行ってしまったのだろう。こんな表現は失礼の極みであることはわかっているけれど(申し訳ない!)、後に会社で「ところで、おたく(元)早稲田ですよね」と言われたことがあって、それがひどく汗顔の至りというか、端的に恥ずかしかったことを思い出す。人が見れば羨む過去かもしれない。だが、あの当時の私にとっては早稲田まで行ったことは「恥部」であり「黒歴史」だったのだった。今でも「そうだよ早稲田だよ!」と居直ることにためらいを感じるので、会社でも早稲田の話は一切しないことにしているのだった。

木曜日に仲間内でのミーティングでプレゼンを行うことになったので、Discordについて話そうかと思っている。だが、考えているうちに「Discordを通した英語ライフ」なんてどうだろうとアイデアが変わってきた。まったく、私はスタイル・カウンシル言うところの「My Ever Changing Moods」の持ち主なのだった。猫の目のようにコロコロ思うことが変わる……そのことをMeWeでも話す。純ジャパというか「コテコテ」の日本人なので、英語は後天的に体得した言語である。日本では英語を使わなくても生きていけるのだけれど、私にとっては英語は昨日も書いたように「たましい」を癒やしクールヘッドを保つために大事な言葉/要素なのだった。そのことについて、思うことを書く。まだまだ煮詰める作業が必要だ。どうして英語を学ぶのか、そしてどのようにして学ぶのか。私にとっては「学ぶこと」は至上の快楽・悦楽である。いくつになっても学ぶことは楽しい……それについて、MeWeで「You are diligent and faithful(勤勉で従順なのですね)」と言われてしまった。実に光栄で面映ゆいこと、重畳で幸甚なこととして受け取る。さて、プレゼンはいったいどうなるのだろう。