跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/04/26 BGM: Lenny Kravitz - Let Love Rule

今日は休みだった。午前中、グループホームの施設長の方とお会いする(わざわざ私の部屋まで来て下さった)。そして私の抱えている問題について相談に乗って下さった。このご時世にこんなことを言うのは問題かもしれないが、「男同士」だからこそできた話というのもある。その方からは私の抱えている問題について「普通のこと」「誰でもあること」だと言われた。だからオープンにしてもいいことであり、「抱え込まないで」と……こうした自分自身の中の歪んだ問題、子どもの頃から悩み続けてきた問題についてその方から力強く肯定していただけたことは支えになった。抱えていることそれ自体に罪悪感すら抱えてきた問題だったのだから……そして、こうした「男同士」のつきあいを持たずに思春期をすごしてきた自分、だからこそ禁欲的に考えるしかなかった自分(だが身体は言うことをきかなかった)を思い返したのだった。

図書館に行った。そしてウラジーミル・ナボコフ坂口安吾を借り、ついでに気になっていた谷崎潤一郎の恋文集を借りる。今はそうしたエッチな事柄以外のことに関心を持てないようだ。ナボコフ『ロリータ』を読む。あくびが出てくるが(あくびは脳の疲労から来るものと聞く。私の脳は端的に今疲れていて活字を受け付けないのだろう。決して退屈だとかそんな話ではない)、しかし読む。ああ、『ロリータ』の恥知らずな主人公の振る舞いに、私自身も同じく小説を書いていた時に恥知らずなことを書いたりしたっけ。かつてはネットで下品なこと、暴力的なことをジャクソン・ポロックの絵のようにさんざん撒き散らしたりした。今はそんなことをする気はない。人から好かれていたい? それもある。だけど、それ以上にたとえ人間がひと皮剥けば欲・煩悩の固まりだとしても、その「ひと皮」をまといたい気持ちがあるならそっちの方が大事だと思うのだ。それは決して単純に偽善や世間体で片付くものではあるまい。

好かれていたい……今、私は過去に嫌われ者で変人と見なされていた時代と比べると(そして関西人の悲しい性なのか、そうした「ひょうきん」で「うつけ」な人間を演じているとウケて承認欲求をともかくも満たせていた時期と比べると)、今は国内外に多くの信頼できる方が友だちとして居る。Discordのとあるサーバでこの「跳舞猫日録」を読んで下さっている方の書き込みを読んだ。今はなんともお返事できないが、実に重畳なことだ。私は凡人でしかない。これは謙遜ではない。ナボコフ『ロリータ』風に書けば確実に読者の方、紳士淑女の方の眉をひそめると思うが書く。英語で言うところの「milf」の動画を漁ったりして、日々白昼夢にこの脳をどっぷりと浸して生きている。だがこうして誰かに宛てて何かを書いたり、仕事に行ったりすると「よそ行き」の人間になるのである。私は基本的に骨の髄までドがつくヘンタイだと思うのだけれど、それをノーガードで明かしていることがあるいは人から信頼されている原因なのだろうか。

万人から好かれる必要はない、と世間知に富んだ人は言う。私が尊敬する村上春樹もそのスタンスだろう。ネットで「イエス・キリストだってみんなから好かれていたわけじゃない」という言葉を読んだことがある。私もこんなアホみたいなこと、エッチなこと、身の程知らずなことを日々書きまくって確実に「アホや」と思われているだろうな、と思う。「アホ」……だが、アホならアホで構わないとも思う。私は私の本能から逃げたくない。だが、それに忠実に生きると称して恥知らずにもなりたくないとも思う。中庸、というのだろうか。ネットでも思えばいろんな文体を試してみた。ウケを狙いたいと思い罵詈雑言を並べて、辛口評論家やご意見番を気取ったりして……だが、結局こんな堅苦しい文体に落ち着いたのである。自然がいちばんだと思う。急になんだか、内側からあふれ出るものに忠実に書いたウォルト・ホイットマンの詩を読みたくなってきた(こんな無理難題な思いつきに振り回されるのも発達障害が影響しているのかもしれない)。