今日は早番だった。仕事中、ふと嫌な思いをする。いつもと同じだ。「死ね」「消えろ」……そんな声を聞いたように思って、実はみんな私が生きていることを疎ましく思っているのではないか、隠しているのではないかとも思ったりもした。そんな思いに浸ることには慣れてしまっている。懐かしいな、とさえ思う。やっぱり生まれてこなかったほうがよかったのか……過去に「生まれてきたこと」がクラスメイトに対して申し訳ないと思った、そんな時期が自分にあったことを思い出してつらくなった。そうして苦しんでいた時、ふとヴィム・ヴェンダース監督の映画『ベルリン・天使の詩』を思い出した。この映画は2人の天使が登場する。打ちひしがれている男のそばに1人の天使が近寄り、男を励まそうとする。天使は人間には見えないのだけど、男はそうした励ましを理解して再び生きる活力を取り戻す……そんな場面があった。
そんな場面を思い出し、もしかしたらこの世界にもそうした「見えない存在」としての天使がいるのではないかと思ってみた。そうした存在が見守ってくれていると考えると自分の心はラクになる。大いなる存在と自分がつながっていると感じられると、自分をその存在に預けてもいいかなと思えるからだ。そして、天使がいるいないはまた別の話としてそうした「見えない」力なら自分自身はいつも受け取っているとも思ったのだった。断酒会や発達障害を考えるミーティング、宍粟市国際交流協会やDiscordなどでつながっている人たちから自分は力をわけてもらっている。自分はひとりではない……そんな風に考えていくとこの世界における自分のつながりのありがたさを今一度感じ取れるように思えた。話が抽象的な方向に行ってしまったかもしれない。要は自分を超えるつながりの深さ、素晴らしさを思い知ったということだ。
小学生の頃、どういうきっかけでだったか忘れたが私は先生に呼び出されてこんなことを言われたことを思い出す。「心を開いて何でも話せる友だちなんてそうそう出来はしない。せいぜい1人か2人くらいだ」と。そう言われたということは私はそうした友だちができることを望んでいたということで、先生が見るに見かねてたしなめるつもりで言ってくれたのだろう。だが、今ではいろんなところに過去のつらい思いをシェアできる友だちがいることを私はひしひしと感じる。1人か2人どころではない。私自身がいじめられた過去や最近読んだ本のこと、くだらないヘンタイ的な趣味のことやディープな音楽の話題などを語れる友だちがそこにいる。そうしたことは自分の支えになってくれる。「求めよさらば与えられん」とはこんなことを言うのかなあ、と考えてしまう。
そんなこんなで夜、仕事が終わったあと英会話教室に行く。そこでバレンタイン・デーに関してレッスンを受ける。好きなチョコレートの種類やラブロマンス映画のお薦め、あるいは今のバレンタイン・デーは商業的にすぎるかどうかといったことをチャットの話題として話し合った。普段こうして書くことでアウトプットの修練を自分なりに積んでいる(つもり)とはいえ、やはり実際に話すことを繰り返さないと言葉はすんなり出てこないもので、ブロークンな英語がポロポロ出てきてしまい恥ずかしくなる。それで恐縮して縮こまってしまい、カタコトの英語さえ話せないで時間だけが過ぎてしまうことに焦り、そうするとその焦りから頭が真っ白になり何も浮かんでこなくなる……という悪循環に陥ってしまう。どこかでこの悪循環を打破しなければならない。普段からできることはスピーキングの練習を自分なりに積むことだと思った。あとはもうポール・マッカートニーに倣って「Let It Be」の精神で自分を開くこと、相手を信じて自分を預けることかなと思ったのだった。その意味ではまだまだ自分は修行が足りない。