英語で文章を組み立てることを日々こなしているせいか、時折脳の中に突然英語のフレーズが生まれることがある。今日、ダニエル・デネット『心はどこにあるのか』を読んでいてふと、「Do Machines Have Desire?(機械は欲望を持つのか?)」と考えてしまった。いつも書いていることだけれど、私は若い頃ずっと機械のようになりたかった。そうなれば自分は欲望という重力の軛と無縁に生きていられただろう、と。あるいは感情というエレメントとも無縁に。そうすれば、どんな場面であっても己を律してたくましく生きていられたかもしれない。女性に肉欲を感じることもなく、誰にも自分のもろい部分を見せずに過ごせていただろう、と(もちろんこれは「若気の至り」というやつだ)。
女性を見ると自動的に反応してしまうこの身体……それゆえに自分の中の性欲を位置づけられずにずいぶん困ったものだ。だから今、ネットの凡そあらゆる場所で不釣り合いなほど豊かな乳房や臀部を備えた女性たちの画像を(二次元・三次元を問わず)見かけると複雑な気持ちになる。今の若い人はそうした私のジレンマを理解できないかもしれない。だが、ならば自分の性欲を剥き出しにしてエッチなことをあけっぴろげに話して過ごしていいというものでもないだろう。公共の場所でほとんどポルノまがいの広告などが提示されているのを見ると、確かにそうしたものへのゾーニングは重要だなと思うようにもなった。「中庸」は難しい。
國分功一郎『はじめてのスピノザ』を読み返す。スピノザの哲学は興味深く思っているのだけれど『エチカ』で挫折して以来ずっと食わず嫌いになっているので、國分の本から学ばなければならないと思っている。私自身の意志とは反するものを私が求めてしまうというジレンマを、スピノザ/國分は見事に言語化・理論化している(私の場合、私は酒を呑んだら地獄を見るとわかっているけれど身体が酒を欲するからそもそも呑まない、というように)。ゆえに彼らの理屈にリアリティを感じる。私自身の思考回路を疑い、より「しっくりくる」ものへと価値観を書き直す/ヴァージョンアップするためにもスピノザ哲学を思考回路に導入する必然を感じた。
今日、図書館に行き『言語はこうして生まれる』という本を借りた。私の読書傾向は猫の目のようにコロコロ変わる。また、私自身そうして予測もつかないところに至る読書を楽しんでいるとも言える。だが、強いて言えば私は読む本を自分自身の生き方/生き様に反映/フィードバックさせることでよりよく生き、その生活で得たことを自分の思考に反映させる運動を続けているのだとも思う。シニカルに考えれば私の人生や思考に意味などない。だが、ならばそのシニカルなツッコミにも意味などないだろうと思う。私はただ一介の踊る猫に過ぎないし、それで充分だとも思う。「でも、やるんだよ」(根本敬)の精神でゴー! だ。