今日、clubhouseで私が作ったグループ"Let Our Souls Talk"(略して"LOST")のルームを開いた。なにについて話すべきか全然考えていなかったのでグダグダになってしまった。緊張して、つっかえながらしゃべってしまって……ただ、楽しいひと時であったことは確かだ。基本的に午後に仕事がある日に開くつもりだ。今話したいことを言葉にできるまで考えて、それについてシェアできたらと思う。あまり哲学的なことを深くしゃべるのではなく、政治的なことでもなく、ありふれた話題について普通に軽くしゃべるのが理想だ。
それで"LOST"が終わったあと、イオンに食事をしに行きそこで片岡義男『日本語と英語』を読んだ。本を読み、仕事をして、clubhouseでおしゃべりして、たまに井上陽水の曲を聴いてチル・アウトして……これでいいのだろうか、とふと思う。本当に自分は自分のしたいことをしていると言えるのだろうか、と。もしくは、したいことを自由にしなければならないと考えること自体無理なのだろうか。スピノザ/國分功一郎に倣って言えば私たちは元来不自由な条件の中でだけ自由で居られる存在である。それを受け容れるべきなのだろうか。
『日本語と英語』で考察されている日本語の表現の面白さ、そして英語の表現のユニークさについて考えると、自分自身でもメモを書きたくなってきた。例えば「発達障害」に代わる言葉はないものか、と。「発達障害」はとても重い言葉だ。なにせ「障害」という言葉が人を必要以上にシリアスにさせる。海外では「Aspie」という呼称/愛称がある。これに見合った言葉を作れないものか……むろんなにかアイデアがあるわけではないが。「Gifted」という言葉もある。この言葉も面白い。神から与えられた存在、という意味になる。私たちの特性は神から与えられたものなのか……。
仕事は本当に面白い。もちろん上司と反りが合わなかったり求められたことができなかったりして厄介だと思うものの、ぶつくさ言いながらしなければならないことをしているうちに身体が自然と動き、それに合わせて気持ちも自然と動き始める。圧倒的なリアリティとしか言いようのないものに気持ちがコントロールされ、自分の中の別の人格すら動き始める。映画を観終えたあとのような、意識が確かに変性したという経験を味わえる。おかしなものだ。グループホームに居る時の自分は単なるエッチな中年男でしかないのに、仕事をしているとみんなに褒められる……。