跳舞猫日録

Life goes on brah!

2022/11/17

昼休み、リトル・クリーチャーズというバンドの『GIANTS ARE DYING』という曲を聴く。この曲は折に触れて聴く曲で、いつもその渋味に唸らされている。彼らは懐かしのテレビ番組「イカ天」から登場したグループで、私の住んでいるところはその番組は放映されていなかったので彼らの颯爽とした活躍ぶりは把握できなかったのだけれど、それでもクオリティの高さには唸らされていた。十代の頃から既に玄人の風格が感じられるバンドだと思った……いや、彼らは決して自分たちの音楽を玄人だけのものにするつもりなどなかったかなとは思うので、イヤな言い方になってしまった。

そのリトル・クリーチャーズや、あとはサイレント・ポエツなどをここ数日聞き返しているのだけれど、こういう「落ち着く」音楽に惹かれる自分というのも面白いなと思う。私自身若い頃から「血湧き肉躍る」音楽にぜんぜん惹かれなかった。ドリカムとかB'zとか、どこがいいのかまったくもってわからなかった(もちろんクオリティの高さには唸ったが)。でも、文学にしても何にしても私の好みというのはいつもそんなもので、結局自分は一生「血湧き肉躍る」「テンション上がる」ものとは無縁に生きるのかもしれない。考えてみれば例えばボン・ジョヴィのようなバンドに惹かれたこともない。U2は聴くけれど。

若い頃、アホな私は「若い」ということをネガティブに捉えていたところがなかったかな、と思う。この歳になってみると「若いって素晴らしい」とも思うのだけれど、当時は「自分は無力だ」「若さゆえに無知」ということに苛立ち、かつ同世代が颯爽とメディアに出て活躍することに嫉妬を感じたりもしたものだ(例えば東浩紀デリダ論に衝撃を受けたことを思い出す)。いや、だったらお前も具体的にアクションを起こして小説の一作でも書けよという話になるのだけれど、私はそんなタマではなかったということになる。だから何もできない自分を持て余し、くすぶり続けていたことを思い出す……。

今日は夜にいつものミーティングがあった。そこで私は前々からこの日記でも書いていたブルース・スプリングスティーン「ボーン・イン・ザ・USA」について話した。曲が誤解されてどのように理解されたか、という話からアメリカの文化に話が及び、日本でも『ムーミン』『サザエさん』といった漫画がどのように原作から遊離して理解されているかについて語られる。いつもこのミーティングでは私の及びもつかない参加者の意見に刺激を受けていると思い、それがまさに「ありがたく」思った。楽しいひと時を過ごすことができたと思う。