跳舞猫日録

Life goes on brah!

2022/11/07

今日は遅番だった。朝、マッコイ・タイナーを聴きながら十河進の本を読んだ。何だか自分は(今に始まったことではないが)スノッブだなあ、とも思う。いつも書いているけれど、20代・30代はジャズなんて見向きもしなかったのに今ではずっとジャズばかり聴いている。若い頃に背伸びをしてクラブ・ジャズ(United Future Organizationとか)を聴いてみて、ぜんぜん理解できず途方に暮れたことを思い出してしまう。まあ、どんなものも理解するためには時間をかけて学ばなければならないのだろう。今ならUnited Future Organizationのよさもわかる気がする。

十河進のエッセイで上昇志向について書かれているのを読む。私はどうだろうか。20代の頃、就職がうまく行かずこっちに戻ってきてからしばらく酒に溺れた。その頃は上昇志向なんてものを捨てて、結婚も家庭も何もかも諦めて生きていた。こんな言い草は恥ずかしいのだが、ずっと「人生を〈半分〉降りる」(中島義道)生き方を採ろうとしてきたと思う。世俗的な幸せを「下らない」と唾棄して、自分だけの幸せを追い求めようとして……でも、今になって私は改めて仕事や読書の中に幸せを見いだせるようになってきたと思っている。

どうしようか、また改めて自分なりの夢や野望に向けて頑張るべきなのだろうか、と考えてみる。子どもの頃、私は夢を持つのが非常に苦手だった。将来のことなんてわかりっこないのに(5年後のことだって私にはぜんぜん見えない)、それでも夢を持つことなんてできない。だけど授業の一環で何か書かなくてはならなかった時、私は渋々嘘を書いたことを思い出す。私は本当に刹那的に生きることしかできないのだな、と思う。夢や希望を持つことで人は前に進める、というのはひとつの真理ではあるのだけれど私の場合は「今・ここ」に集中することしかできないようだ。

なぜ働かなければならないのか、なぜ生きなければならないのか……こんなだいそれた問いにまで今日は考えが至ってしまった。私の場合は端的に働かなければ生きていけないから、食っていけないから仕事を始めたのだけれど、同時に「この仕事で通用しなければ自分はダメになる」と思って必死だったことも思い出せる。ニートやひきこもりを一概に否定するつもりはないが、私はそうした生き方を選べなかった以上働くことを選び、生き延びるために自分の知恵を絞ることを選んだ。それが今まで生きている。嫌になれば即座に辞めてやる、と思い続けて20年……カート・ヴォネガットではないが、人生とは「そういうものだ」ということなのだろう。