跳舞猫日録

Life goes on brah!

2022/10/31

今日は遅番だった。朝、十河進『映画がなければ生きていけない 1999-2002』を読む。本の中で紹介されていたフィル・ウッズのジャズを聴きながら、かつての自分のことを思い出す。20代の頃は自分はジャズには目もくれずブリットポップばかり聴いていたのだけれど、人は変わるものだ。今ではジャズの方に関心が向いている。「映画がなければ生きていけない」というタイトルから自分の場合はどうだろうか、と考えてしまう。私は多分音楽と本と、こうして書き続けることや英語を学び続けることがなくなったら生きていけないだろう。

自分はどうしてここにいるのだろうか、と考えてしまう。もしかしたらもっといい人生を送れていたのではないか、と……才能あるライターになれたり、学者になれたりしていたのではないかと考える。そうして考えることはしかし、結局のところ現実から逃げることにしかならないと思う。現実が映し出すのは私はただの凡人だという事実であり、それでいいのだと思う。「今・ここ」を受け容れてそこで生き延びることを考える。世の中は私のことをフェアに遇していると考えている。現実は常に正解であり、それが嫌なら自分を変えていくしかない。

成熟すること、老いることについて考えた。若さの盛りにあった時……自分にもそういう時代があった。今の私は紛れもなく中年であるわけだが、そうして中年を迎えることは衰えていくこと、諦めることだと思っていたことを思い出す。だが、断酒して発達障害を考えるミーティングに通うようになって、「今・ここ」にいる自分はベストなのだと思えるようになった。いつだって「今・ここ」が一番いい。これからも私はこうして現状を肯定して生きて行くのだろうと思う。若かった頃のような無茶をするのではなく、大人として節度ある振る舞いをするのだろう。

ああ、成功を夢見て足掻いた日々があった。何が何でもビッグになりたい、有名になりたいと思って……今は自分はそんな身の程知らずな夢や野望から遠ざかって、落ち着いた日々を過ごせていると思う。これからも私は90年代のボブ・ディランを聴いたり、エリック・クラプトンの『アンプラグド』を聴いたりしながら過ごすのだろう。そんな風に枯れた日々を過ごせるということこそが自分にとってはある種成功である、とも思う。金や名誉には繋がらなくとも、心の安定を保ててクオリティを保てたものを書くことができる。その「枯れた」風情こそが自分にとっては成功の証なのだろうと思う。