BGM: Peter Gabriel "Father, Son"
今日は休みだった。朝活の一環でイオンに行く。10時に未来屋書店が開いたので行って鈴木忠平『虚空の人』とヘミングウェイ『老人と海』を買う。『虚空の人』を読み、少し泣いてしまう。覚醒剤で捕まってから今に至るまでの清原和博の足取りを追いかけたノンフィクションなのだけれど、この本の中で見せる清原和博の中に横暴さ/凶暴さはない。むしろ弱さを見せ、戸惑いや迷いを見せる彼の姿にある種のカリスマ性を逆説的に感じた。メディアが伝える清原の姿に私も毒されていたと思い、もっとこの清原のことを追いかけたくなった。「清原になりたかった」と言わしめる清原は、同時に清原を演じるしかない不器用な男でしかない。そんな苦難を知らなければ彼を知ったことにはならない。
「栄光」とは何だろう、と思った。清原は子どもの頃から野球において頭角を現し、野球生活に自分を捧げて生きた人間だ。私は子どもの頃から今に至るまで実に凡庸にしか生きてこなかったので清原の苦悩も憤懣もわかるわけがない。だが、「栄光」がそうした苦悩を帳消しにすることがなかったのに興味を惹く。これは非常におこがましい想像になるが、清原が野球をやる原動力とは俗っぽい「栄光」ではなかったのかもしれないな、と思った。彼はもっと無邪気に、金や女やといった俗物的/マテリアルな成功とは無縁にただ球場に行って「ハレ」の空気に身を投じ、バッターボックスに立つ興奮を味わいたかったのではないか。そんな少年のような感受性を持つ清原を見た気がする。
私語りになってしまうのだが、私は「栄光」とは無縁に生きてきた。辛酸を嘗め、このまま消えてしまいたいとも思って……だが、今は自分は幸せだと言える。私もまた日々の中の「ハレ」というか祝祭的な空気に憧れた人間なのだけれど、でもそんな「ハレ」の日の幸せだけを追い求めるより、村上春樹言うところの「小確幸」を集めて地味に生きることを選んだのだった。だが、考え方を変えればそうして「小確幸」を得る堅実な生き方もまた「栄光」を生きていると言えるのではないか。清原和博だっていつまでもバッターではいられない。地味な日々の繰り返しを薬物依存症と戦い続ける道を選んだのだ。彼が今、確かに得ている彼なりの「小確幸」について知りたくなった。
夜、アーネスト・ヘミングウェイ『ヘミングウェイ全短編1』を読む。私はヘミングウェイがストーリーテラーだとは思わない。話の巧みさで惹き込む作家ではないと思う。だが、ヘミングウェイの短編には独自の旨味がある。それは、ヘミングウェイが彼自身が知り抜いていること、彼自身が愛着を抱いている事柄をそのまま提示しているからだろう。だからこそこの安定感が出るのだと思った。逆に言えば彼はイマジネーションで非現実的な世界を描くような作家ではありえなかった、ということになる。私もまた小説を書いていた頃、非現実的な世界の「ハレ」を描くことに四苦八苦していたが大事なのは「小確幸」を描くことなにかもしれない。少なくともこの日記はそうした営みとして続いている。