跳舞猫日録

Life goes on brah!

2022/08/20

BGM: TM NETWORK "Get Wild"

今日は早番だった。仕事前、ふと「夏に読む本」について考えた。これからどんな本を読めばいいか考え始めたのだ。人生は有限である。読める本には限りがある。ならば、これからどんな本を読んで人生をエンジョイしようか……ディケンズを前に読みたいと書いてから結局読めていないことが気になり、あとはサリンジャーを再読するとかジョン・バンヴィルという作家をまったく読めていないことが気になっているのでそれも読みたくなる。こうして書いてみると芋づる式に「夏に読む本」が出てくる。アリステア・マクラウドという作家も気になるし、読みたい本は尽きない。

ああ、かつて私は世の中とぜんぜん上手く折り合いがつけられず、本を読むことで世の中から逃げていた。学校の先生からも「あなたは本の中に逃げている」と言われたことがあった。今も本は私の友だちだと思うのだけど、それでも少しずつ仕事やプライベートを通して村上春樹言うところの「コミットメント」、つまり世の中に自分自身を投じる試みをしてきたつもりではある。ジョブコーチのことを通して、断酒を続けて、というように。その過程で私自身もずいぶん成長したのではないか、と考える。自画自賛かもしれないけれど。

そうやって成長したというか、少なくとも人間的に変わってきたからかTwitterを覗いていてもかつてのように問題発言を見つけて「けしからん」と憤ること、そしてそこから言い合いに発展することもなくなってきた。ある時から、Twitterの言い合い/議論を「世論」と捉える考え方に違和感を覚えるようになった。こういうSNSの使い方には向き不向きがあると思うのだけど、私はFacebookで行われる相対的に冷静なやり取りが自分にとって「向いている」のではないかと思えるようになったのだった(いや、Facebookでも低劣な人も居なくもないけれど)。

日本社会は失敗を許さないというか、再生の機会をなかなか与えない社会だという風説がある。私のように就職で躓いたり、あるいは受験で失敗したりしたらそこから這い上がることは難しい、ということだ。もちろん世の中にはそうした逆境を乗り越えて成功する人もたくさん居るが、何が言いたいかというとSNSでも何でも「失言」をしてしまうとその恥をずっと引き受けなくてはならないという、そういう風潮がありはしないかということだ。勇気を持って太宰治ばりの「道化」になり、恥ずかしいことや変なことを言う。そんなスタンスがあってもいいと思う(私はチキンなのでそんな役回りを引き受けられないが)。