跳舞猫日録

Life goes on brah!

2022/08/01

BGM: 佐野元春「だいじょうぶ、と彼女は言った」

断酒会でお世話になった方が亡くなられたとのニュースから一夜明けた。今日は遅番だった。改めてその方が為したことに思いを馳せる。自身が断酒を決意するだけではなく、断酒会という集いを成立させるべく尽力されて、そして私が今でも参加している断酒会が生まれたと聞いている。一生をかけてそんなことをされたと思うと、使命に燃えた人の情熱の大きさについて考えさせられる。私はそんなことを為しうるだろうか。わからない。メディアには載らないだろうが、しかし立派な仕事をされた方だったと改めて敬服してしまった。

水村美苗日本語が亡びるとき』を読む。英語がグローバルな言語として成長し、辺境にある言語として相対的に日本語が衰退しているという状況を著者は嘆く。資本主義の爛熟とインターネットの発達がそうした「英語の世紀」の成立に拍車をかけているとの整理は迫力がある。徒手空拳、という言葉を思い出す(読みながら橋本治の著書にも似た、対象とサシでぶつかりあう論述が為されていると感じた)。細部において異論を抱くところもあったが、しかしその異論は新たな議論への可能性へと向かい合うと思った。ゆえに本書は叩き台として読まれうると。

私は日本語と英語で日記や小説を書いているけれど、これは自己批判として書くけれど自分のそうした英語の使い方は無邪気であったとも思う。クレオール言語について書かれたものなどを読んでいると英語を使わざるをえない作家の苦渋の決断が生々しく記されており、それと比べると私の使用など不謹慎もいいところだ。ただ友だちがネイティブだから彼らに読んでもらいたくて英語で書く、というだけなのだから。そんな私は皮肉ではなくこの水村の論述のような真剣さを見習うべきではないか、とも思った。彼女の『私小説 From Left To Right』を読みたい。

だが、そんな不謹慎な私なりに思うのは水村とは違って私は伝統的な日本語も確かに美しいと思う。私の好みの範囲だと漱石や谷崎、川端といった作家の日本語は非常に清らかに映る。しかし、ライトノベルの世界で氾濫しているジャンクな日本語も私は等価のものとして考えたいとも思うのだ。ネットにおけるスラングもその使い手が感じるリアリティを生々しく反映したものであるとするなら、その切実さは尊重されなければならないとも思う。日本語とはそうした多様な、悪く言えばごちゃまぜな言葉を内包して発達してきたのではないか。そんなことを思った。坂口安吾なら「それこそ日本語だ」と言ったかもしれない。