跳舞猫日録

Life goes on brah!

2022/07/03

誕生日を迎える。今日、前に聞いていた英語関係の集いに参加した。私はauを使っているのだけれど、通信障害の影響を受けてアポを取れない状態で飛び込みで参加してしまった。英字新聞の記事を参加者たちが精読するという内容で、バイデンやプーチン(つまりアメリカとロシア)について時に議論を交わされながら各自が読みを開陳していく。こんな集いが行われているとは私もつゆ知らず、「どこにいても勉強することはできるのだな」とその熱意に心動かされるものを感じた。来月のための資料をもらったので、また参加してみようと思う。

その集いが終わった後しばし何もできないで、本もロクに読めずかと言って他に有意義な過ごし方もわからないままに、映画やドラマを観る気にもなれず時間が過ぎた。たまにはこうしたマインドワンダリングな(ぼんやりする)時間も必要ではある。だが、退屈なまま時間がすぎるのは流石にキツい。イオンに行き、しかし持参した本を読む気にもなれず時間が経つのを待つ。ふとclubhouseで安部公房砂の女』の話をしたことを思い出し、書店で買い求めて読み始める。すると安部公房の端正な文章が頭に入ってきて、すんなり読むことができた。

私は不真面目な読者なので、レディオヘッド『KID A』をBGMに『砂の女』を読みながら以前に観たシャマランの映画『オールド』を連想する。あるいは、砂に苦しむ主人公の苦闘はそのまま「ブラック企業」の中で必死に仕事をこなしつつその企業自体から逃げようとする主人公の運命を思わせる。だが、そこから逃げたところで日々のルーティンの反復に支配された別種の地獄が待っているというカフカ的な不条理が指摘される。ならば地獄の中で快楽を見出し、その地獄をむしろ能動的/アクティブに生きる必要がある。そんな問題をあぶり出した、実に面白い本だと思った。

夜、Discordで行われた哲学カフェの集いに参加する。今回の集いのテーマは「遊びとは何か」。専門用語を使うことを避けて平たく自分の意見を語ることに務める。私は、國分功一郎『暇と退屈の倫理学』に倣って「遊び」とは暇つぶし/退屈しのぎであると思っている。時間や金といったリソースを、特に見返りを求めず湯水のごとく使うことで(儚いものではあれ)快楽を得ることだと解釈している。故に英語で日記を書くことも私にとっては充分「遊び」だと思う。読書だってそうだ……と話す。これに関しても面白いひと時を過ごせたと思った。