跳舞猫日録

Life goes on brah!

2022/06/29

今日は遅番だった。朝、リトル・テンポというグループの音楽を聞きながら青山拓央『心にとって時間とは何か』を読む。ふと、そうして本を読みながらイオンでくつろいでいる時間について考える。本があり、音楽があると自分は幸せを感じる。それは人からするととてもちっぽけな幸せかもしれない。もっと稼いだり、成功したりすれば濃密な幸せを体感することができる……だが、私は今のこの幸せをなかなか気に入っている。贅沢は言わない。ただ、好きな音楽があって自由になれる孤独な時間がある。この幸せを忘れたくないと思う。

「この世界が」あるいは「この人生が」私をこうした現在に導いたのだ、とする考え方。もちろんこれはレトリックの問題だ。世界も人生も意思を持つ存在ではないので、私はそうした大きな事柄を主体にして文章を組み立てることで一種のまやかしを産み出した、ということになる。このまやかしは「これは神様の御心だ」というような考え方にも通じる。だが、私はこうした表現が全くのナンセンスだとも思えない。確かに自分を超えた意志がそこにあり、自分をコントロールしていると感じることがあるのだった。

この考え方をネガティブに推し進めると「自分の人生は他人にコントロールされている」という発想になる。私はただの運命の奴隷なのだ……確かに、そう言いたくなる気持ちは理解できる。私もまた、自分ではどうにもならない偶然にコントロールされ、流れ流れてこのような状況に陥ったことを自覚しているからだ。私はたまたま早稲田に入った。偶然によって、今交際している友達と出会った。今の会社に入った……それらについて、私は合理的な説明を思いつかない。たまたまこうなった。そこに意味なんてない。多分。

デカルトは「我思う故に我あり」、つまり「自分がこのようにして考えていること、それ自体は疑いえない」と言ったという。だが、私は私が考えていることが本当に私のオリジナルなのか、あるいは私はむしろ何者かによって考えさせられているだけではないか、とかいろんなことを考える。もしかしたら私は私の無意識にコントロールされていて、その無意識にそそのかされながら生きているのかもしれない、と。この発想を推し進めると哲学だけでは片付かず、むしろ量子物理学の思考を学ぶ必要があるのかもしれない、と思う。