今日は遅番だった。朝、図書館に行き坂本龍一・福岡伸一『音楽と生命』を借りて読んでみた。この本の中で、2人はロゴス(言葉)とピュシス(自然)の相違について語っている。人間は言葉で自然をとらえようとするが、その自然は常に深遠なものであってそれゆえに言葉ではとらえきれない性質を持っていることが指摘される。確かにそれはそうだ、と私自身共感を抱いた。私自身、言葉や論理ですべてをできるだけ明晰にとらえようと努力しているのだけれど、そのロジカルな試みは限界がある。自然とは深遠なものであり、ゆえに私は謙虚に向き合わなければならない……こうした自然をめぐる指摘は、最近私が関心を持っていた山歩きや読みたいと思っているヘンリー・デイヴィッド・ソロー『森の生活』にも通じるものがあると思った。私自身、このちっぽけな自分自身のせせこましい認識を超えたものに触れたいのかなと思ったのだった。ロジックも大事だが、自然の「すごさ」もまた重要な存在としてある。
この本の中で、私たちの身体もまた自然が生み出した存在でありつまりは自然そのものであると語られている。自然であるがゆえに、私は自分の身体をコントロールできない。だからこそ、それは尊いとも言えるのではないか。与えられてあるものであり、「私固有のもの」とはついに言い難いからこそ……私は(汚い話をするが)飯を食い、うんこをして血を流す。それがリアリティだ。この考え方を敷衍していけば、私とは「ギフテッド」なもの、「賜物」ではないかとも思った。ならば私とは親や高次の存在の「賜物」とも言えるのだろう……そこまで考えた。私は信頼できる友だちから「言語の人」と言われるくらい言葉に関するこだわりが強いのだけれど(だから言語を駆使して、こうして日々日記を書き続けいろいろ考え込んでしまうのだった)、だが同時に「言語は万能だ」とも思いたくないとも思う。言葉によってとらえきれないもの、言葉がコントロールできないこと(他人の感情など)はある。その事実に謙虚でありたい。
仕事に入る。今日は職場でジョブコーチの方とミーティングがあった。蒸し暑い中話し込む。その話し合いの過程で、私はまたしても泣いてしまいそうになった……というのは、こんな風にあたたかい雰囲気で仕事について実にクリエイティブに、実に闊達に話し込めるところまで来られたことが信じがたく思われたからだった。ああ、長い道のりだった。思えば、発達障害を考えるミーティングに参加するようになって、そこでジョブコーチというシステムがあることを知って……でも、私は「そんなシステムは都会の話だ。こんなど田舎で利用できるわけがない」と諦めを抱いたりもしたっけ。でも、ねばり強く会社に(時に搦め手で)働きかけて……そしてここまで実現させたのだった。そんな経緯にこの私自身が驚いている。そういうことが起こりうるのだ……これからどんなことが起こるかわからないが、今日のような出来事をありがたいと思う気持ちはなくしたくないと思った。人の優しさに触れられた一幕だった。
そして、禍福あざなえる縄のごとし……夕方、Facebookを見て自分のアカウントがハックされていることに気づいた! 悪戦苦闘するが結局どうにもならなかったので、新しくアカウントを作ったのだった。さっきまでジョブコーチの方と和やかに話し込めていた気分もすっかりぶち壊し……だが、こんなスットコドッコイな経緯にもかかわらず何人かの友だちがさっそく私とまた友だちになってくれて、それが嬉しかった。セキュリティに気を配ることが肝要だという当たり前の事実を学ぶと同時に、そんなことがあっても信頼できる人との「絆」は不変のものであるとも思い、その事実に感謝する。まあ、それが人生なのだろう。そして、そんなことがあったとしても仕事に戻り、胸騒ぎのする中仕事をこなしていると落ち着きを取り戻せたように感じられたので「仕事モード」とは偉大なものだなとも思ったのだった。こうしたソーシャルメディアとの付き合い方についても再考するきっかけを与えてもらったと考えれば、そんなに「高くつく」「痛い」レッスンとも言えないのかもしれないなとも思う。