2022/06/11

Twitterをやめるべきかと考えている。どうもTwitterをやっていると自分の性格が窮屈になるように感じられる。目の前に現れた意見に反射的に反応してレスポンスをする癖がつくように感じられるのだ。佐々木敦が、何事かを批評するには反射神経も必要であると『批評王』で書いている。それは確かにその通りで、眼前の事態に対してどう自分の意見を即座に提示するか、それが知性のあり方なのだろうと思う。しかし、私は熟慮を採りたい。その時時の事柄に対して、可能な限りじっくり考えて答えを出す。それが私の生理的な資質に沿った生き方ではないかと思う。

Twitterをやめようかと思うもうひとつの理由は、私の気分がコロコロ変わりやすいことが挙げられる。昨日、私は仕事においてほとんどキレかけて怒りを抑えるのに精一杯だったのだけれど、今日はいい仕事ができたと思って満足している。この場合Twitterをやっていると、キレかけた時のツイートと満足している時のツイートが併存することになる。矛盾した心理をツイートで表すので、どちらの意見に責任を負うか、あるいは両方の意見に責任を負えるかが問題になってくる。無論、ソーシャルメディアで発信するということは時にそのような矛盾を発表することを恐れずに、しかし可能な限り首尾一貫した意見を述べる努力をすべきであるということになる。そんなことが自分にできるだろうか。

今朝も、大江千里の『OLYMPIC』を聴きながら仕事の準備をして、モチベーションが湧かないながらも仕事をした。やる気が出なかったのだが仕事をしていると身体が温まり、モチベーションが沸いてくる。いつものマジックを体感することができた。Twitterで無闇矢鱈に発信すると、こうした支離滅裂な言動が記録されてしまう。その場合、その支離滅裂を全世界に晒すことになる。ずいぶん怖いことをしているなと我ながら呆れる。いや、それを言い出せばこの日記自体、昨日と今日でずいぶん違う自分を晒しているので結果的には同じなのだが、まだしもこちらの方は熟慮に基づいた記録をしているので心の準備ができるのだった。

夜、M・ナイト・シャマラン『オールド』を観る。コロナ禍の暗喩のような映画だと思った。閉じ込められた環境で何もできず、ただ老いていくという今のシチュエーション……だが、シャマランの映画では主人公たちが賢明さを発揮して生き抜き、そこから脱出する。『シックス・センス』の印象が(未だに)強い監督だが、様々な意匠を凝らして娯楽に徹する姿勢は尊敬する。そこに鬱陶しくならない程度に哲学を盛り込んでいるところも興味深い。否応なく迎える老いをどう受け容れるべきか、そんなことをも考えた。