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ひとりの凡人でありたい

古田徹也『いつもの言葉を哲学する』という本を読む。ウィトゲンシュタインの研究で知られる方だが、私たちにも馴染みの深い「日常(的な)言語」について微細な次元からマクロな議論へとつなげていく試みがなされており、ハードすぎるところがあるが面白い。この本の中で、言葉を語る際の心構えについて言及されている箇所がありこれが私自身の問題意識とシンクロしているように思われた(と、無意味に「シンクロ」という外国語を使ったことを古田なら咎めるだろうか)。それは、言葉に責任を背負い自分の意見を語ること、同時に他者の意見を尊重するということである(別段目新しくない意見かもしれないが、しかし私自身なかなかできないことでもある)。

こうした言葉に応答責任を背負うことは、別の言い方をすれば自分の言葉を重く扱うということだろう。これは今の時代において分が悪い。いちいち言葉を重く考えていてはこのスピーディーな時代において取り残されてしまうからだ。殊に、今は炎上マーケティングをも(選ぶか選ばないかはともかく)戦略のひとつとして視野に入れなければならない時代。地味かつ泥臭く、しかし丁寧に自分の意見を語っても誰からも聞いてもらえないのではないかという不安も残る。だからこそ刺激的な言葉(「親ガチャ」だとか「(身長170センチ以下の男は)人権がない」)が流行るのだろう。

そして、こうした自分の意見を重く扱うことを軽視する傾向と日本の英語教育とは(もっと言えば、議論/ディベートで母国語でであっても自分の意見をなかなか出せない学生が居るという現象は)影響しあっているように思う。矛盾するようだが、言葉を放つとはいちいち考える前に反射神経的に発する肉体的な「リアクション」の謂であり、裏返せばその「リアクション」を鍛えることが言葉を流暢に喋ることへとつながりうるからだ。だから熟慮は意味がない、と言いたいのではない。逆だ。普段から自分の意見を熟考する姿勢、見つめ直す姿勢があってこそ「リアクション」で自分の意見をプライドを以て話すことができる。

そう考えてみれば、今は「リアクション」に頼って話すことが重視されすぎているように映る。それはバラエティ番組の世界で当意即妙なフリートークやアドリブを駆使した話し手が人気が出てしまうことを思わせる。話したい思想/ネタを地道に練り上げる姿勢は、たやすくそういったトピックが「消費」されてしまう今においてますます流行らなくなるのかもしれない。自分の意見が斬新/アクチュアルであることが持て囃される時代(だから、他者との違いが明確になる「論破」にこだわる人が居るのだ)。私はそんな世の中にあっても、やはりひとりの凡人でありたいと思った。