跳舞猫日録

Life goes on brah!

(少しだけ)馬鹿になる

スティングのベスト盤を聴いています。このアルバムの中に「Russians」という曲が入っています。ロシアとウクライナの戦争に関するニュースを聞き、ふとこの曲のことを思い出しました。内容は東西冷戦時代のロシアを歌った歌であり、当時は(少なくとも「西側」のミュージシャンであるスティングの立場からすれば)想像するしかなかったロシア人の気持ちについて触れ、そこから私たちは同じ人間同士ではないか、と綴った歌です。「当たり前じゃないか」と思われるでしょうか。私もひねくれていた時はそう思っていました。これじゃフィル・コリンズだよ、と。

今はインターネット時代。当時のような冷戦構造とそこから生まれる情報の欠如はなくなったように見えます。私たちは数多くのロシアやウクライナの情報に触れることができる。だけど、これは新しい困難を生んでいるように思います。情報が溢れすぎてしまってそこからたやすく陰謀論に陥ってしまったり、あるいは知りたい情報しか得られないものだから情報の偏り/バイアスが生まれてしまうというものです。私自身、この戦争については耳に痛いリアリスティックな議論も傾聴しないといけないと思いつつなかなかそれができていません。

鶴見俊輔を読み、私がつながらせてもらっているドリアン助川さんのポストを読んで、私自身のスタンスを改めて問い直そうと思います。それは、戦争を起こすのも人間ならば戦争によって苦しむのも人間、そして戦争で儲けるのも人間でありそれを傍観するしかない私もまた人間である、という事実を噛み締めることです。人間であるがゆえにパーフェクトな決断はできない。だが、私という主体が居なければこの世界は知覚しえない。だからこそ私は社会的存在としてこの世界の中に否応なく巻き込まるし、巻き込まれるなら間違っていても自分の意見を綴ろうと思ったのです。

私の考えは「左巻き」と言われるようです。確かに極左の団体に所属していたこともあったし(3ヶ月で辞めました)、その後も藤田省三を読んで自分の考えを鍛えてみたこともあります(これも長続きしませんでした)。私は、またこれも屁理屈屋と言われるかもしれませんが、私自身の内側から立ち上がる考え方に従いたい。その考えはそして、必ずしも思想書だけに留まらず数多いアーティストやミュージシャンが恥をかきながら放ってきた意見でできています。彼らの恥を踏まえて、私も恥をかくことを恐れまいと思いました。


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