昨日買い求めた服(シャツやジャケット)を、今日さっそくおろして着てみる。靴も今日、新しいものを履いてみた。実を言うと仕事柄ぼくは職場の中を毎日ぐるぐる、それこそ1日8000歩くらい歩くことが求められる。だから靴選びはバカにならず、いかにぼくが粗忽とはいえこればかりはとても神経質にならざるをえなかった。もし間違った靴を選んでしまえば足が傷んできて靴擦れができてしまったりして、それこそ目も当てられない事態になる。でも、グループホームの管理者の方と2人で買い求めた靴は合っていたようで、だからとても軽く・違和感なく履くことができた。重さを感じないいい靴だと思う。
Spotifyで「ニューエイジ・ミュージック」をあれこれ聴きつつ、今朝はいつものように阿部昭の小説『緑の年の日記』を読み進めていく。しかし、そんな感じの睡眠不足の(そのくせ、プレッシャーがあって「覚醒」していたりもした)頭はなかなか活字を受け付けない。だがしかし、読みふけるのをやめてしまうとただでさえ寝不足で鬱々した気分のぼくは「病んだ」ことしか考えられなさそうになく、トラウマをあれこれ蘇らせたりしてしまいそうで難儀だった(学生時代にいじめられたこと、会社に入ってから苦労したこと、などなど)。心をつとめて「軽く」「まったり」させ、来る明日(土曜日)のDiscordでのヴァーチャルな忘年会のことを考えてあれこれ時間をつぶした。今年はどんな1年だっただろう。
今日は2日間の休みのあとで、だから仕事場に入って仕事をしてからも調子を取り戻すまで時間がかかってしまい、そのことも右往左往する原因になる。1時間の休憩時間に入り、そこでペナルティのワッキーにかんするニュースを読む。彼がガンをわずらい、その後彼自身の人生の使命をあれこれ考えるようになったという旨の記事で、それを読み柄にもなく「ぼくの使命とはなんだろう」と考えてしまう。30代、まったくヘビードリンカーで毎日毎日呑んだくれていた頃、ぼくは夢だとか大志だとかそんな大がかりなことは「意識高い」人たちにだけ許されたことであり、ぼくとは無縁だろうと信じていた(あるいは、そう信じてあきらめてしまおうとしていた)。たぶん当時車谷長吉なんかを読みふけっていたからか、「人間、死んだら終わり」「死ぬまでこの労苦から解放されることはない」「夢がなんだ」とかなんとかうそぶいていたっけ。でも、それからあれこれあって英語で日記を書くようになり、あるいはプライベートタイムに英語を学ぶようになって「この英語力を活かせたら」と思うようになった。ボランティアのスタッフとして、町で仕事ができないかなあ……なんて。いや、この英語力でいいのかどうかいまだ自信はないけれど。