仮に、いまぼくが10代もしくは20代だったらとあれこれ想像・妄想をふくらませてみる(ちなみにぼくは今年で49になる)。いまや誰も彼も、子どももふくめて老若男女がデバイスを持ちインターネットに接続してあれこれ時間を過ごす「気散じ」を楽しむ時代。いや、そんなことにことさらジェラシーを感じたくもない。だって、もし感じてしまったらこれまでのぼくの人生をまるごと否定すること、曲がりなりにも達成してきたかもしれないものをうっちゃることにもつながりかねないからだ。ぼくはぼくなりにこの半生を愛する。でも、たとえば仮にぼくが傷ついた心を抱えて1人で町であてどもなくうろついていた際、そうしたデバイスがあれば孤独感・孤絶感は癒されうるだろうし世界とたしかにつながっているという安心感を得られて、1人ではないとも思えるのではないかと思う。それはバカにできない安心感だと信じる。
そうこう書いていくと、肯定するか否かはまた別の問題としても少なくともインターネットがぼくの人生・生活の支えになってきてくれたことは認めるべき事実としてある。しかし、そうしたコネクション(つながり)、千葉雅也的に言えば「接続過剰(要するに『つながり過ぎ』)」がもたらしうる問題というのもあるだろう。前にあるぼくの英語の先生が、現代人はこのネット社会・情報化社会がもたらす過剰な情報を受け取りすぎていて古代(平安時代、もしくは下って江戸時代)とくらべてべらぼうにたくさんの情報を処理しなければならず、したがって端的に脳の処理速度・処理能力を超える情報がストレスとして作用しうると教えてくださった。いや、聞き飽きた陳腐な話と「冷笑」する向きもあるかもしれない。だがその陳腐といえば陳腐かもしれない現実に関する処方箋を、少なくともぼくはまったく書けそうにない。
インターネットに関する主要な問題はぼくの場合つまり、こういうことになる。どうやってインターネットに食われないようにして日常生活で貴重な時間を確保し、自由意志をも確保するか。つまりネットに依存しすぎない生活をどう保つか。ヴァーチャルな、だが魅惑的で魔性をはらんでもいるネットの魅力からどう身を離し、適度な距離を保つか(そしてネットに「食われない」「丸呑みされない」ようにするか)。これについて考えるに、恥を込めて書いておかないといけないのは20代・30代のころはほかでもないぼく自身がそうした「仮想現実の」「ヴァーチャルな」(つまりは「かりそめの」)人間関係に没頭していて、そこでニーチェも読んだことがなかったくせに「超人」気取りでイケイケの人間になろうと息巻いていたという恥ずべき事実である。そんなこともレッスンとしてぼくの中でいまなお活きている。書けるようならこれからそんなことも回想として書いていきたいと思う。