跳舞猫日録

Life goes on brah!

2022/04/14

前に「もう生活保護をもらって、働かないでラクに生きなよ」と言われたことがある。それはそれでひとつの賢い生き方ではあるのだろうと思う。働かないで国や親に寄生して生きる。でも、私はそんな行き方を良しとしない。勤労の美徳を心のどこかで信じているから、というのもあるのかもしれない。でもそれだけではないはずだ。私にとって働くとはそんな抽象的なものではない。実際に制服を着て会社に入って、具体的にものを動かして相手と話すそんな行動の積み重ねそのものだ。そうした行動を通して私は社会と関わっている。その手応えを確かめたいからかもしれない。

今朝も、仕事に行きたくないとか家で寝ていたいとか思う気持ちを何とかやり過ごして職場に行き仕事を始めた。そうすると、動く自分の身体に気持ちがついてくる。いつの間にか仕事と自分が一体化しているような、そんな自然な流れをつかむことができた。マジックと読んでもいいのかもしれない。もとより、私は仕事が好きではない。プロ意識も(いつも書いているが)ない。しかし求められているのだとしたらその要求に応じて仕事をしたい、貢献したいとは思っている。これはいつも読んでいる十河進の影響なのだろうと思う。

青山真治の日記『宝ヶ池の沈まぬ亀』を読んでいる。時折蓮實重彦が乗り移ったような難しく知的な書きぶりが発揮されてはいるものの、基本的には読みやすい。青山真治はもちろん映画を撮り数多くの傑作を残した方だが、小説でもその健筆が高く評価されていたことを思い出す。読んでみるのもいいかもしれない。多様な映画に触れ、バラエティ番組を観て世相を見つめていた。そんなひとりのアクチュアルな映画作家の姿が見えてくる。いったい晩年(!)の彼はどんな心境で過ごしてたのだろう。厳粛な気持ちで読みたいと思った。

河瀨直美のスピーチのことを考えている。私は河瀨直美はそんなに的外れなことを言っているとは思わない。私たちが「悪」と見做しているものが別の視座からすれば「正義」かもしれない、という「相対化」は必要ではないか(その作業は、自分がよって立つ「正義」を問い直す意味がある)。だが、その「相対化」が行き過ぎると現実で行われている誰の行為(例えば民間人の大量虐殺)も「悪」とは言えなくなるので、やはりどこかで「悪は悪だ」と言わなければならないという、それだけのことなのだと思う。今回の騒動、私は村上春樹の「卵と壁」のスピーチを思い出す。村上のスピーチと同じく河瀨のスピーチもまた、簡単に「利用」されかねない類の危険さはある。そのナイーヴさこそ批判されるべきだと思った。

https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/about/president/b_message2022_03.htmlwww.u-tokyo.ac.jp