跳舞猫日録

Life goes on brah!

2022/03/12

今日は朝から仕事だった。天気がよかったので、小説を書いてみてもいいかと「突然」思い立った。久しぶりにスピッツの曲を聞いた。「青い車」だ。この曲に似合うような哲学的なものを書きたいと思って、タイトルはそのまま「青い車」と名付けた。仕事が終わりグループホームに帰ってきて、夕ご飯を食べてひと息ついてから書き始めた。全然思い通りにならない。でも、書きたいという気持ちを諦めたくはなかったので無理矢理に書いた。全然面白くなる予感はないのだけれど、それでも書いていきたいと思っている。

novelup.plus

書きたいことはそんなに大それたことではない。ごく(私にとって)ありふれたことだ。私にとって大事なことが、どうして他の人にとっては陳腐なことや特に興味を惹かれないことでありうるのだろう、と……逆もまた真なり。私はスピッツの「青い車」という曲に惹かれるし、名曲だと他の人も認めるのだけれど、この曲がミリオンセラーになったという話は聞かない。とまあ、単なる戯言だ。私は大江健三郎でも古井由吉でもないので、グローバルな問題意識や深遠な死生観を持っているわけでもない。それでいいのだろうと思う。

それで、保坂和志の本を読み返したくなった(彼の本はある意味、いつもこうして書いている日記を含む私の文章すべての「ネタ元」である……堀江敏幸松浦寿輝の書くものと同じだ)。『プレーンソング』『草の上の朝食』『季節の記憶』を読み返すことにする。ああ、昔私は保坂和志に憧れて、というかもっと言えば猿真似をして小説を書いて、結局どうしようもない愚作になってしまって恥をかいたことがあった。志が低すぎたのだと思う。純粋な私のオリジナリティで勝負すべきだったのだ。そう思い、「青い車」を書いている。

いや、楽天的に「私のオリジナリティ」があると信じ込めるほど私は若くないしバカでもないつもりだ。ただ、私は山崎浩一というコラムニストの書いたものに影響されたのだけれど、彼がどうしたって既存の作品から解析することのできない「(自分の中の個性としての)ゆがみ」から書くことを薦めている。私は、百万回スピッツを聴いて保坂和志を読んだとしても彼らの真似はできない。私の書くものは私の書くものである。その程度には私の書くものはクセがあるし、歪んでいる。ならば、それを誇ろうと思った。だから書き続けることを誓った。