跳舞猫日録

Life goes on brah!

Mind Fruit 2022/03/08

今日もぼくは英語の勉強をしています。といってもシリアスな勉強ではありません。DiscordやWhatsAppを使って英語でやり取りしたり、たまにペーパーバックをめくってみたりする(読む、とは言っていません)程度です。今日、ぼくはこんな意見を見かけました。「あなたのように流暢に英語をしゃべれないから」。この言葉をとある女性が、なるほどつっかえながら英語で必死に喋ろうとしておられました。ぼくはこの言葉を聞いて奇異に思いました。「どうして英語を流暢に喋ろうと思うのだろう」と。ヘンな問いかもしれません。でも、ぼくは意地悪を言いたいわけではなく真面目に疑問に思ったのです。

ぼくのことを言えば、ぼくの英語は決して流暢なものではありません。これは他人からの評価も聞いてみたいところですが、少なくともぼく自身は出川イングリッシュの延長のようなたどたどしい英語をしゃべっています。頭の中で完璧に構文ができたような英語ではなく、その場しのぎの思いつきで単語を並べてできたような英語です。それでも通じる時には通じるので、まあいいかと開き直っているというのが正直なところです。そんな、ムチャを言わないで下さい。日本語圏で暮らしているので、英語なんて普段使うことはないのですから。

でも、ぼくは流暢に喋れる人がカッコいいという風潮はどうかと思います。むしろつっかえながらであっても、言いたいことの芯を捉えてそれを必死に言葉にしようとしている人、そういう人を応援したいと思うからです。多分これは正解なんてないのだと思います。一方ではぼくは語学は純粋にテクニックを学べば言いたいことの幅が広がると思っています。でも、その一方で本当に言いたいことがあるならテクニックを超えて伝わるとも信じています。これに賛同してくれる人は少ないでしょう。というか、ぼくしかこんなことは考えていないかも?

ぼくは今日も英語を勉強します。つっかえながら、カッコ悪い英語をしゃべります。「偉そうなことを言って、あんただって勉強するのは流暢に喋りたいからなんじゃないか」と言われるかもしれません。違います。ぼくはぼくの考えていることを能うる限り透明に、平明に伝わるように喋りたいのです。それは必ずしも「流暢な」言葉ではないかもしれません。むしろ大江健三郎の文章のようにゴキゴキとねじ曲がった英語になるかもしれない。ならば、そのねじ曲がった英語を極めてみたい、と心のどこかで思っています。それが多分「オンリーワン」の英語かなと思うのです。