私は運が良かったのだろうか、と考えてみる。生まれてきたのが1975年のベビーブームの団塊ジュニア世代。故に受験戦争はそれなりに熾烈であり、その戦争をくぐり抜けて大学に入って出る段になって就職氷河期に巻き込まれた。私自身どこの会社からの内定ももらえず、その後女友だちの言葉がヒントになって「自分は発達障害者なのではないか」と思い診断してもらった。結果は黒と出た(そして、それを一生背負って生きることを――周囲に明かすか隠すかはともかく――強いられることになった)。さて、これらの事実は全て「運」で片付くものだろうか。
……こう書くと茶々を入れられるかもしれない。人生、博打/ギャンブルの要素はあるだろう。私たちがそれぞれ違う顔を持っていることだって、性別が異なりうることだって生まれる親や土地を選べないことだって、全部私の能力を超えたところに位置するものだ。それを言い出せば物理的に重力に縛られて生きなければならないことすら運不運の問題で語りうるだろう。私ができることと言えばだから、そうした制限/制約の中でこそ(完全にではないにせよ)自分の思い通りに生きることを目指すことだ。そして、能うる限り「よく生きる」こと。本書はそうしたギャンブル的現実でなお「よく生きる」ことを目指して書かれた本なのである。
だが、この「よく生きる」は一歩間違えれば「状況に文句を言うな」「逆境をむしろありがたいと思え」というような「シバキ」の匂いのする言葉になってしまう。むろん古田はその「シバキ」から距離を起き、確かに道徳的/倫理的に高みを目指すことは大事だが現実問題として人は運に左右される生き物であるというリアリティを見つめている(故に、私たちは不完全であり――あるいはだからこそ――その不完全な存在として精一杯善をなそうとする)。そうしたリアリティを織り込んだ精緻な議論を試みているところに全幅の信頼を起きたいと思ったが、この本自体では現代社会に即した議論がさほど行われておらず、ちょっと残念に思う。