今日は休みだった。古田徹也『いつもの言葉を哲学する』を読む。この本は「ぼくらの時代の文章読本」として読めると思った。「やさしい日本語」、つまり主に外国人向けに記されたわかりやすい日本語について書かれたところが目を引く。私の知り合いにも日本語教師の方が何人かおられるから、その人たちにもお勧めしたい本だと思ったのだ。古田はこの本で、「やさしい日本語」の意義を認めた上でそれがジョージ・オーウェル『1984年』に登場する「ニュースピーク」になりうる可能性について記している。「わかりやすく書き直された言葉」が孕む暴力性について古田は考察する。これはなかなか深いと唸った。
「ニュースピーク」をつまり、「多様な/オルタナティブな書き方」を排した「暴力的なほどわかりやすい言葉」「誤読の余地がないほどシンプルな言葉」と理解すると(ただし、私は不勉強にも『1984年』を読んでいないので誤解があればご指摘下さい)、その「ニュースピーク」と「やさしい日本語」の相違は見えてくる。「やさしい日本語」は決して「これが絶対的な書き方」「こう書かねばならない」と他を排除するものではないからだ。私のこの文章のような悪文にも存在意義があることを認めた上で、なお伝わるように「オルタナティブな書き方」な試みとして存在するのが「やさしい日本語」だと理解する。
「やさしい日本語」は、ゆえに日本語を活性化させる斬新さ/新鮮さを備えていると言えないだろうか。もちろんそれが古田が懸念するように他の書き方を排除する方向に働いてはまずいわけだが、私はそんな危険性を感じない。ただ、だから古田がナンセンスとかそんなことを言いたいわけではなく、古田が懸念する現象は、別の形での粗暴なわかりやすさの中に表れていると思う。例えば逐一(神経症的にさえ感じさせられる)テレビ番組やYouTube動画などで登場するテロップ。あるいはカタカナ語の氾濫(これは古田も別の節を設けて論じている)。そのあたりを私なりに考えてみたいと思わされた。古田の他の本と同じく好著だと思う。
夜、オンラインミーティングに参加する。そこで私が巷で使われている「タイムパフォーマンス」「タイパ」という言葉とミヒャエル・エンデ『モモ』について話した。時間を節約してムダを省くことを追求する姿勢を意味する「タイパ」という言葉だが、私の人生においてもムダはあったわけで(「大学時代の4年間を遊んで暮らした」「酒に溺れて金と時間を浪費した」など)、それを後悔しても始まらない……『モモ』に登場する「時間貯蓄銀行」の人間なら「実にムダだ」と私をなじるかもしれない。だが、その「ムダ」をこの身体を通して身に沁みる形で体験しないとわからなかったこともある。そう考えれば今の私にとって「ムダ」ではない。それを再確認することができて、楽しいひと時だった。