跳舞猫日録

Life goes on brah!

2022/02/19

上野俊哉『思想家の自伝を読む』を読み終える。上野はこの本の中で、「自分自身」とはなんだろうと問うているように思う。「自分自身」……私がこんな人間であること自体ひとつの謎/アポリアではないだろうか(上野は「自己そのものが(ガンのような)一種の病気だとしたら?」と書いている)。少なくとも私はこの性格を背負って生きてきたことで、常に居心地の悪い思いを強いられてきた。後に私自身が発達障害者であることがわかり、仲間を見つけてこの世界の中に収まる術を見い出せたのだけれどその仲間の中でさえも私は違和感を覚えたり、孤立を感じたりすることがある。むろんそれは悪いことではない。「こんな毎日にとりあえず文句つける」(フィッシュマンズ)の精神で、仲間に対してもとんがった自分自身の個性をぶつけて生きている。

レディオヘッドは「おれはなにをしているんだ/ここは居心地が悪い」と歌っている。この感覚は私にとってもとても馴染みがある。学校教育の中で、たまたま生まれた年と住んでいる場所が同じというだけの理由で集められた集団の中に位置づけられて、そこでとても「居心地が悪い」思いをしなければならなかった。トム・ヨークが歌うように「おれはキモい(I'm a creep)」と常に自覚させられざるをえず……だが、「キモい」と自覚しなければならないのはなぜか。それは他人がそう語るからだ。自分ひとりで満ち足りていればそんな自分を「キモい」と思うことはないはずなのだ。

この世界に居心地の悪さを感じざるのをえないのは、他人と共生せざるをえないからなのではないか、と思ってみる。無人島に住むわけにはいかないので、私は他人と折衝/コミュニケーションをして、他人の利害も考慮しながら生きざるをえない。いきおいその他人の要求をある程度呑んで生きることを強いられ、他人の自己に対する評価もシリアスに捉えて生きなければならない。そして、その他人が私にとって全世界と同義だとしたら。「みんな」が私のことを「キモい」と言っている……と思ってしまうほど嫌われる経験を子どもの頃に積まざるをえないとしたら。私はそんな孤立の中で生きざるをえなかった。それは私を歪め、しかし強めた……。

若い頃、私は島田雅彦の書いたものを熱心に読み耽ったことがあった。今はまったく読まなくなってしまったが、彼が(エドワード・サイードの向こうを張って?)「亡命者」であり「ヒコクミン」として自己を位置づけて、そのアウトサイダー/異端者としての立場から日本を批判しラディカルなことを言っていたのに憧れ、これこそが知性ではないかと思ったのだった。今、私はそんな異端者を気取ることも一種の中二病であると思う。だが、ならばそんな中二病を生きることもあながち間違いではないとも言えるわけで……やれやれ、私はこんなことばかり考えるから「キモい」のか。