跳舞猫日録

Life goes on brah!

2022/01/20

今日は職場で面談があった。そこで今後の働き方について話し合う。今回も、私は自分の仕事ぶりを正直に話した。というか、そうするしかなかった。上司の立場から見えるのはきっともっとマクロな世界だろう。私のような末端の人間から見える世界とは大違いだと思う。私が話せるのは小さなことばかりだ。日々困っている聴覚鈍麻、相貌失認、そして発達障害から来るコミュニケーションの困り感……だが、それは確実に私の労力を奪っている。そんなことを話した。上司とコミュニケーションがうまく行っていないことに関しては相手も問題視しておられた。

夜、ZOOMを使って「やさしい日本語」を使ったワークショップに参加する。被災したというシチュエーションから、相手にどうわかりやすく事柄を伝えるかを考えるという内容だった。私が苦し紛れに「張り紙もいいが、識字障害で読めない人もいるだろうから絵を使うのはどうだろう」と言ったら肯定的に受け取られたようで嬉しかった。これも発達障害について知り、宍粟市の外国人の方の生活について知ったおかげだと思う。他の方からも阪神淡路大震災の記憶などが語られ、多々教えられることのある有意義な集いになったと思った。

その後山本一生『百間、まだ死なざるや』を読む。評伝ということもあり事実の羅列を読むのでやや退屈ではあるが、それでも内田百閒の生き様は生々しく伝わってくる。借金をせずにはいられない人生を送り、書いた小説はなかなか理解されず、だが孤独に生きたわけではなく常に芥川のような畏友が居た、という人生。ふと、私も『新輯内田百閒全集』を読むのはどうだろうと思った。百閒の書くものと本格的に向き合おうと思ったのだ。早速図書館に予約してみた。読めるかどうかはわからないが、挑む価値はあるだろう。

その後なにか小説でも書こうかと思ったのだが、書く気になれずダラダラ百閒の文庫本をめくっているうちに夜は更けてしまった。ここ最近映画も観ていないし、なにか有意義なことをしないとと思う反面どうしても「やりたいこと」しかできない性格なのでのんべんだらりと終わってしまう。まあ、しょうがない。こんな感じで今年もすでに読みふけった百閒や古井由吉を読み返し、大きな小説を書きたいと思いつつ断片的なものを書き散らして終わるのかなあ、と。今年はいったいどんなものが私の内側から湧き出てくるのだろう。