ジム・ジャームッシュ『コーヒー&シガレッツ』を観る。「コーヒーとタバコ」。このふたつの共通点はというと多分(あくまで私見だが)庶民の娯楽であり、中毒性があること、体に悪いことであるだろう。私は親の躾の影響でタバコというものとは無縁に生きてきたのだが、酒を浴びるように呑んできた時期があるのでこういう「中毒性がある」「体に悪い」「庶民の娯楽」のことはそれなりにわかっている。特に理由などなくても喫茶店やコンビニでコーヒーを買い、タバコを吹かし気分を一新させる。これはもう(映画内で言及されているが)「おしゃぶり」みたいな厄介なものであり、でも生活に欠かせない大事な要素なのかもしれない。
11の短編が収められている。どの短編も明石家さんまばりにイラッと「で、(この話の)オチは?」と訊きたくなってしまうような、そんな癖のある短編だ。ふと出会った相手に自分の代わりに歯医者に行ってもらうナンセンスな話、双子の黒人に「エルヴィスが双子だった説」を説く男の話。イギー・ポップとトム・ウェイツが豪華に共演した、だけど中身は「なんのこっちゃ?」な会話。そういうのが延々と続く。どこが面白いのかわからない。のだけれど、これがジム・ジャームッシュと演じる俳優たちの手にかかればマジカルになるのだから映画というのはわからない。「なんとなく」最後まで観てしまった。
多分、その「なんとなく」観てしまう原因は「なんとなく」観ることを許す独自のこの映画の「ユルさ」からなのかもしれない……これもまた「なんのこっちゃ」な理屈かもしれないが、ジム・ジャームッシュといえば今や泣く子も黙る巨匠。そして、その評価に違わずきっちりコンスタントに映画を撮り続け評価を得ている人物である。だが、この「粋人」の映画はそんな「巨匠」の風格を感じさせない独自の「ユルさ」を備えていると思う。はっきり言ってしまえば隙だらけなのである。ここまで飾らず、それでいて凝った撮り方をするのはワン・アンド・オンリーなのではないか、とも思う(いや、彼とて例えば小津からの影響は受けただろうが)。
『コーヒー&シガレッツ』の撮り方の凝り方で言えば、例えばふたりがコーヒーを飲みながらダベっている時にさりげなく両者のコーヒーの減り方が違っていることを見せるところが気になる。いや、あんなもの演者のアドリブでしょと言われるかもしれないが、この減り方ひとつが映画のアクセントになっているのだから侮れない(その人物がどれだけコーヒー好きか、というようなことを考えさせるわけだ)。机の上に無造作に開いた雑誌のページに銃の写真が載っているところ、これだけで登場人物のキャラを匂わせる見事な演出となっているように感じられる。このあたり、実に渋く細かい。
アドリブ、でふと思ったのだがこの映画の会話はどこまで俳優陣のアドリブなのか、私にはわからない。まさか丸ごとアドリブな話などないと信じるが、仮にホンがあろうがアドリブだろうがこの会話の一癖も二癖もある噛み合わなさ、独自の気まずさ、だが険悪になりすぎない渋みは奇跡としか言いようがない。変な例になるが、いくら『ハムレット』が傑作のホンであると言ってもド素人が演じれば悲惨なことにしかならないのと同じで、ステージ/撮影現場を渡り歩いて演技を肉体で「体」得した演者だからこそ出せるマジックというものがあるのだと思う。マジック故に私のようなアマちゃんには語れない領域なのだが。
それにしても、この映画を観ていると人間って色々あるなと思わされる。いつものように当たり前のことを言うが、私なら私は46年間生きてきたのでその生きてきた経験が身体に刻み込まれている。もちろんかなり忘れ去られただろうが、兎も角も見聞きされ身体に叩き込まれてきたものが私の肉体や精神を作っている。この映画はそうして個人の中に歴史があること(「人に歴史あり」だ)を教えてくれる。誰の中にも人生があり、そこから演繹される哲学がある。そんな個性/個々性のかけがえのなさを教えてくれる、繰り返すが「粋人」故の脱力/まったり映画であると受け取った。