跳舞猫日録

Life goes on brah!

2021/12/27

BGM: Oasis "Whatever"

自分は夢を見ているのだろうか、と思った。夢……プロの作家になりたい、書くことで生計を立てたい、という夢だ。夢というものは厄介だ。何事かを成し遂げた人は夢を持つことの大事さを語る。「I have a dream」……だが、その夢は呪いに変わることもあるのではないかと思う。諦めた方がいいだろう場合であっても、夢にしがみつき自滅するということもありうる。その人物が夢を追い続ける人生に満足していればそれもいいのかもしれないが……なら私はどうすべきなのだろう。見切りをつけてまっとうに生きるべきなのだろうか。

来年から、いや今からでも私は英語を再び勉強すべきなのだろうかと考えた。どうやって他の人は英語を勉強しているのだろうか。いやそもそも、みんなどうして英語を学ぼうとするのだろう? 私はさしあたって英語を仕事や日常生活で使うことはないのでほぼ自己満足で勉強しているのだけれど……私もなにか日々の生活に目的を見出すべく、英語を鍛えてなにかできないかなと考えたりもしているのだった。TOEICを受けるとか、もっとclubhouseの英語でのミーティングに参加するとかして活躍できないかな、と思った。

今日も今日とてグループホームの部屋から出てイオンに行く。そこでは色んな人が居た。イオンの従業員、お客様……みんな、ただの紙切れにすぎないお金を出してものを買い、ハイデガー的に言えば「虚しいおしゃべり」をして、生活を保ち続けている……だがそれが私には(むろん、不遜な言い方になるが)愛おしいものだと思った。みんないずれ死ぬ生までの時間を、それぞれの生を燃やし続けて生きている。夏目漱石吾輩は猫である』を思い出した。みんな、悲しい運命を生きている。だが、同時にその運命は愛おしくもある。

メモパッドにつけている英語のメモを元に私はこの日記を書いている。だが、その英語のメモを見ながら「なぜ私はこのメモを読めるのだろうか」と考えてしまった。もう最近では英語を見てまめに辞書を引くこともなくなった。日本語で考えてそれを英語に訳するのではなく、自然と英語の言い回しが「体から」出てくるようなのだ。無意識の中に英語のルールがインストールされたということなのだろうか。言葉のルールを体得するとはしかし、どういうことなのだろう。またウィトゲンシュタイン野矢茂樹を読み返すべきなのだろうか。