跳舞猫日録

Life goes on brah!

2021/11/18

ふと思ったのだけれど、私のことをいじめた人、私に辛くあたった人は、いまどうしているのだろう。私のことなんて忘れてしまっただろうか。私も、そういう人たちのことを忘れたり許したりするべきだろうか。ボルヘスだったか、「忘却こそ最高の復讐である」と言ったのは……私も真剣にそういういじめっ子の家に火を付けることを考えていた時期がある。人にこのことを話すと「深いね。でも、誰だって思い出したくない過去はあるもんだよ」と言われた。誰もが誰かにこんな恨みつらみを抱いて生きている、とでも言うのだろうか。

自分自身とはなんだろうか、と考えた。どうやったらこの掴みどころのない自分自身を把握できるのか。それは無理なのかもしれない。絶えず動く川の流れを捕まえたいとか、絶えず移ろいゆく時間を捕まえたいとか思うのがナンセンスであるのと同じではないか、と。ということは自分とは流体というか液体なのかもしれないな、と思った。「Be Water」というのは香港民主化運動で使われたスローガンのひとつだったと言うが……液体の心を私という肉体の容器が持ち運んでいる、とイメージしてみる。暇つぶしとしては面白い。

中島義道『七〇歳の絶望』という本を読んだ。中島義道もついに70歳の古希を迎え、それでも死や時間といった不条理について哲学的な思索をめぐらせる。「人生のすべての苦しみは『私がいる』と思い込んでいることに帰着する」という箇所が引っかかった。ここに居る自分自身に執着せず、自分なんて居ないと考える……時折、私はこう考えてみる。例えば村上春樹金井美恵子の小説を読ませれば誰でも私の代わりは生まれうる、その意味でオリジナリティなんてない人間なのではないか、と。自分とは空っぽで他人から与えられたものでできあがっている、と。むろん、そう考えても「人生のすべての苦しみ」が解消されるわけではないが。

私という人間をどう捉えるか。天上天下唯我独尊という言葉があるが、ここに居る自分の代わりを誰も生きられないという意味では自分は特別である。だが、その自分がどれだけ足掻いても自分が語った言葉や為したことは他人からは「ある人が為したこと」と平凡に受け取られてしまう。自分にとっては自分は特別である。だが、他人にとっては自分は平凡である。なら、自分にとって他人とは? そんなことを考えてしまった。自分が70歳になったら一体どんなことを考え、どんなことをして暮らしているのか。古井由吉は70代で『白暗淵』という目が眩むような傑作を残したのだが……。