跳舞猫日録

Life goes on brah!

Bewitched 3

午前3時といえばスコット・フィッツジェラルドが「魂の真暗な闇」の形容のために用いた時間である。つまり、私たちがもっとも暗いと感じる時間ということになろう。私のようにのんべんだらりと生きている人間でさえ、そんな時間に目覚めるなんてことは御免被りたいものだがそんな時に目が覚めてしまうことがある。起きてしまい、再び眠りに就くには眠気が飛んでしまい、だが話し相手もおらずどうしたらいいものかわからない。そんな時は私はどうすることもできず、結局本を読んで過ごすことになる。今日は堀江敏幸『一階でも二階でもない夜』を読んだ。

本を読む時は、私は音楽を聴く。なので、ブルートゥースを使ったワイヤレスヘッドホンでパソコンからSpotifyを使って音楽を聴く。今日はモグワイの『カム・オン・ダイ・ヤング』を聴いた。かつてポストロックと呼ばれて熱狂的に聴かれたアルバムだが、そんなブームの熱が去ってしまってもこのアルバムは(少なくとも私にとっては)聴くたびに心の柔らかい部分に響くものがある。激しいバンドサウンドが奏でるメロウなメロディ。それはどこまでも枯れていて、同時に激しい。陰気ではあるが、同時に心を癒やすものがある。

堀江敏幸は『一階でも二階でもない夜』に収められたとあるエッセイをこう結ぶ。「胸のうちを他者に伝える作業は、じつはとても複雑で、微妙で、時間を要するものである。ひりひりした緊張感をともなう思いやり。そんな心の変換装置があってこそ、言葉は生きる」(p.233)。他者に対する配慮を求めた内容のエッセイだが、私はこんな風に「緊張感」を以て「思いやり」と共に人と接しえているだろうか、と恥じてしまう。私はどんな人間関係においても疲れるような関係はまっぴらごめんだと思っているので、逃げることに腐心しているのかもしれない。

だが、私の病理(?)はある意味ではもっと根深く、そもそもどんな人間関係であってもそれが思い通りにならない以上、本来なら嬉しく感じられるはずの相手からの賛辞や熱愛さえも私には「緊張感」が感じられて疲れてしまうのかもしれない。内田百閒は「世の中に人の来るこそうれしけれ とはいふもののお前ではなし」と狂歌を詠んだそうだが、この心理はよくわかる。そしてこの狂歌を笑ってやりすごせる人こそ、私にとっての真の親友であるようにも思う。私自身もまた他人にとってはうるさい存在なのかもしれないが。