跳舞猫日録

Life goes on brah!

Bewitched 1

なにしろあれは悪夢のような時代だった、という呟きを目にした。今からもう10年も前になるのだろうか、この国で政権交代が行われた時代の話らしい。その時代のことは、実は私の記憶にはない。「悪夢」というくらいだから相当絶望的だったのかもしれないが、私は自分の飲酒と職場のキツいシゴキのダブルパンチを食らってそれどころではなかったのだ。そんな体たらくなので、3.11のこともほとんど覚えていない。昼間から酔いつぶれて眠り、夜になるとまた酒を求めてコンビニに走るという暮らしをして生きていたことを思い出す。

久しぶりに古井由吉の小説『白暗淵』を読み返した。「物を言わずにいるうちに、自身ではなくて、背後の棚の上の、壺が沈黙しているように感じられることがある。沈黙まで壺に吸い取れたその底から、地へひろがって、かすかに躁ぎ出すものがある」(p.9)と古井由吉は書く。私なりに読むなら、もし黙り込んで自分の内側からなにも音を発しなくなり、外にも音がなくなり無音の状態が続くとその静けさこそが騒々しい音を立てるという境地があるのではないかということになる。シーン、という音でお馴染みの静寂が頭に響くほどうるさく感じられる、ということだろうか。

私の場合、部屋の中では絶えず音楽が鳴っている。この音楽はしかし、聴くためというよりむしろ聴かないため、まさにそのシーンという音を耳に(脳に?)響かせないための仕掛けと言ってもいいのではないかと思う。もちろん優れたメロディやノリに身体を合わせて気持ちよくなりたい、という役目もある。だが、私は音が鳴っていないと落ち着かないのだ。音が鳴らない部屋はそのまま、大げさで詩的過ぎる表現になるのだけれど静けさがそのまま脳を直撃するかのようで落ち着かない。誰かと話したり、ラジオをぼんやり聴く方がまだ落ち着く。

今日、図書館に行き堀江敏幸のエッセイ集を借りてきた。一番新しい『定形外郵便』というものだ。私の場合、なにかを読んでいないと落ち着かないから本を読むというところがある。ADHDの人の特徴として、あまりにもせっかちなために目の前のなにかから常に情報を読み取らないと気が済まないというところがあるらしいと聞いたことがある。そう知ったのは物の本で読んだか誰かの無責任な呟きからかわからないけれど、ともあれ私は静けさとは無縁でいつも心が不安定に揺れ動き、なにかを聴きなにかを読んでいる。そして、それらを元に考える。