言葉とはなんだろう……そんなことを考えていると池田晶子を読みたくなった。早速『REMARK』を読もうかと考える。池田晶子は早逝した哲学者で、そんなに熱心に読み込んだわけではないのだが深く考え抜くスタイルを貫徹した人だと思う。自分の関心は結局そうした哲学の領域なのだろうなと思う。言葉とはなにかを考え、考えることはなにかを考える(動物は考えるのだろうか?)。時折この想像力/イマジネーションが苦痛になることがある。なぜ自分は考えすぎる……だが、考えすぎるからこそその余剰がなにかの役に立つこともある。
今日は映画は小津安二郎『秋日和』を観た。夫に先立たれてひとりで暮らす女性と、結婚適齢期を迎えたその娘をめぐるコメディだった。彼女たちは降って湧いた結婚の話題に、自分が婚約して誰かの妻になる可能性について考える。小津の映画が素晴らしいなと思うのは、登場人物たちが確かに成長するところだ。誰も「ここに居たい」と立ち止まって守りに入ってしまうことがない。訪れた転機を誠実に捉えて、それを拒否せずに自ら変わっていこうとする。その勇気ある姿勢に励まされた。私も、これが転機なのかもしれない。
最近、この日記になにを書いたらいいかわからなくなってきた。どうせ大したことなんて考えてないんだから、もっと気楽に飾らず書いたらいいのだけれどなかなかそれができない。田中小実昌という私が尊敬する偉大な日本の小説家のことを思い出す。田中小実昌(尊敬を込めて「コミさん」と呼びたいが)の文章は隙だらけのようななんの創意工夫もない文章のようであって、実は緻密な思考に裏打ちされていたものだった。またコミさんの小説『ポロポロ』やエッセイ集を読み返すのも悪くないかもしれない。ちくま文庫から出ているエッセイ・コレクション全6巻をどこかで買えないものだろうか。
かつてグループホームのスタッフとしてお世話になった人が、LINEを送って下さった。英語を勉強したいので私とLINEをしたい、ということだった。引き受ける。私は特に体系立てて英語を勉強した人間というわけではないが、英語は肉体で話すものだと思う。身体に(脳だけではなく、身体全体に)言葉を刻み込む。そうするといざという時にその言葉が自然に出てくる。この体験を何度も重ねてきたので、今は「英語は格闘技」というような極端な見解を持つまでに至った。プロゴルファーが毎日パットの練習を重ねるように、私も今日も英語を話した。