跳舞猫日録

Life goes on brah!

2021/10/27

今日の読書は『日野啓三短篇選集』上下巻を読んだ。日野啓三の作風を表現するのは難しいけれど、サイエンス・フィクション的な要素を持つ文学でありJ・G・バラードの作風に近いと言えば伝わるだろうか。どの作品も面白く、拒食症を見据えた作品や奇想が展開される作品も読み応えがあったのだけれど、著者が癌を体験し死を意識してからのエッセイ的な作品が殊の外印象に残った。人類が、必ず訪れる「死」を意識して言葉で呼び表し始めるようになったのはいつからか……そんな哲学的な考察が光っているように思われた。

今日は断酒会に参加したのだけれど、依存症について学ぶ機会があった。依存症からの回復のひとつの過程として、健全な自己愛を育むことが挙げられていたので印象に残った。発達障害者として生まれて、ずっといじめに遭ってボロクソに言われて育ってきたので私は自己愛を持つことが苦手でいつも「自分なんて死んでしまえばいい」と思っていたのだった。だが、断酒会に参加するようになってダメな自分を認めて、それを他人に告白できるようになってやっと「自分も大した存在じゃないか」と認められるようになったのだと思う。

それまでは、私は自分がどこが秀でていてどこが劣っているかを自己愛の条件にしていたように思う。私は(多分)賢い、私は(多分)いい文章を書く、等など。だが、私はダメなところや至らないところも含めて、丸ごとこの自分として生きることが大事なのだと思えるようになったのだ。それは長い年月を必要としたが、やっとできるようになったと思う。とある女性に「自分のことをボロクソに言わないほうがいいです」と言われたことも自分を変えたと思う。考え方は訓練次第でなんとかなる、という証左でもあるのかもしれない。

死……かつて私は死ぬことを望んでいた。だから酒を大量に飲み、自分を殺そうとした。自分なんて死んでしまえばいい、それが当然のことなのだ、と思って……今、私は生きている。もっと生きたいとも思う。たとえそれがレディオヘッドが歌うように「(生きていることは)永遠に続くかゆみを掻くこと」だとしても、生きていることは尊いとも思う。今日の日野啓三の読書で私は「死という概念が言葉になったのはいつからだろう」と考えた。生きている限り私はそうして解けない問題を問い続け、考え続けるのだろうと思う。