今日は休日だった。今朝、いつものように英会話関係のZoomミーティングを楽しんで、その後イオンに向かう。いや、休みの際の典型的な過ごし方を「リプレイ」している自分がいてこう書いているだけで情けなくなってしまうが、イオンに行くからといってべつだんアテがあるわけでもなくただのんべんだらり過ごすだけなので部屋にいたっていいわけで、でも部屋でまったりしていると自分の心があたたかい部屋の空気や本の山の中でグスグス腐ってしまいそうで落ち着かない。おかしな話で、昨日なんかは「正月あいだ働いたのだから、明日は『寝正月』で過ごそう」と決め込んでいたのに(たぶんにこの発達障害的、とりわけADHD的な性分も働いてのことだろう。ともあれ、イオンに行きそこでここ三が日に読みふけっていた奥泉光『「吾輩は猫である」殺人事件』を読み終える。とてつもなくすばらしい、ぎっしり中身が詰まっていながら濁ったというか欲張りすぎた要素がないスマートな知性の結晶と唸る。おいしいエッセンス(ミステリやSFや、王道の純文学に至るまで)がそのままかたちになった旨味たっぷり・歯ごたえ充分の作品だ。
そんなこんなで午後になり、さっき書いたことをなぞるが午後こそ完全休養につとめて(と言えばカッコいいが、早い話が疲れ果てていたのと正月気分でだらけていたせいもあり)「寝正月だ」と昼寝をしてからは文字どおり部屋から出ず、まったり過ごす。さっき書いた奥泉光の作品からは、100年ほど前の明治の人々がどう人生をまっとうしたかが伝わってくる。戦争や紛争があったり、革命やロマンスに思いを馳せあまつさえ身を投じたりして彼らが自分の人生を向上させるべく、必死に生きたことが見えてきそうに思う。それを縮めて言えば「イノベーション」ということになるのだろう。いまはどうだろうか。ぼくはそんな「イノベーション」を持ち得るだろうか。あるいは野心というか大志でもいいのだけれど。1つ言えるのは今年もたぶんこんな感じで英語学習と読書にいそしむことに変わりはなかろうという予感で、そのぼくなりの嗜好がどこに連れて行ってくれるのかあれこれ考えたりもする。
夢、野心、大志、抱負、などなど。でも、これについてぼくから言えるのはぼくは実に移り気な、飽き性の人間なのでぼくでさえ自分がいったい明日なにを考えているのかわからない(それゆえ、自分さえ信じられない)ということだ。前にぼくは今年は漱石を重点的に読むと書いたが(とりわけ、まだ読めていない『行人』『明暗』なんかを読みたいと思っている)、午後に江藤淳が漱石について記した短い随筆を読んでそこで(周知の事実というか、あまりにも広くすでに知れ渡ったことがらかもしれないが)漱石が英国の作家ジェーン・オースティンに影響されたと書かれていて、それが興味を引く。さっそく『高慢と偏見』『マンスフィールド・パーク』なんかを「今年読めたら読む本」リストに加えた。こんなふうにしてぼくの読書は雪だるま式に膨れ上がっていって身動きが取れなくなるのだった。そのくせ、飽き性なのはさっき書きつづった通りなので投げ出した本も山ほどある。そろそろ出る田中小実昌の本にも惹かれたり、前に書いたミステリに興味を惹かれているという話もぼくの中ではまだくすぶっていたり、などなど。
その後夕食としてカレーライスを食べたのち、それこそ古井由吉や金井美恵子、沢木耕太郎やフェルナンド・ペソア、漱石なんかの本をテキトーにつまみ読みというかザッピングして過ごした。いったい今年なにができるだろう。50歳になるわけだけど、でも酒が止まってから体力・気力が快復してきたからかなんだか「これから」自分の人生の次の章がはじまるのかなとかなんとかまったくもって年甲斐もないことを考えてしまったりもする(いったいいまが第何章目なんだかわかっていないにせよ)。たしか漱石は49で亡くなったはずだが、ぼくは生きている。ああ、過去40になった時、それこそ同じ40で夭折したカフカのように散りたいとあさはかな・バカげたことを考えていたっけ。でも、漱石の教え「則天去私(天に則って『私』を捨て去る、と解釈する)」を守って生きられるうちは生きたいとも思うようになった。