跳舞猫日録

Life goes on brah!

2021/10/23

池澤夏樹の本を読み返したくなり、『海図と航海日誌』を図書館で借りることにした。その池澤夏樹が詩集を翻訳したことがあるというリチャード・ブローティガンの小説である『西瓜糖の日々』を読み返して、それから全然本が頭に入らなくなったので今日は読書を止めてチャットをして過ごそうかと思ったのだけれど、たまたま本棚にあった未読の堀江敏幸『河岸忘日抄』を読み始めたらすんなり入ってきたので、同じ堀江敏幸『振り子で言葉を探るように』と併せて読み始めた。するとその堀江が称賛している須賀敦子日野啓三を読みたくなり……エンドレス。

自殺したアーティストのことを考えていた。エリオット・スミスカート・コバーンニック・ドレイク、前にも書いた二階堂奥歯……そして私も、自殺こそが救いであると真剣に信じたことがあった。それは鶴見済完全自殺マニュアル』の影響かなとも思う。いつでも死ねる、なら生きよう……逆説として響くかもしれないが、死を思うからこそ生が尊く感じられるという考え方もあるのではないかと思う。今はそんなことは考えていない。ただ私が若すぎたせいなのか、それとも若かった頃の方が今よりもストレスフルだったこともあって老人みたいな感覚を備えていたということなのか。

『河岸忘日抄』を読み始め、このようになら書けるかもしれないと思い、今書いている書簡体のものとは違うものとして書こうと思うようになった。もちろんそれはプロになど到底なれっこない日曜大工的なものではあるだろう。だが、それでも自分の中から生まれるかけがえのないものであることには変わりはない。それが自分の中から理由もなく生まれるのであれば、自分の子どものように可愛がってやって然るべき場所を与えるまでだ。読書癖といい、自分はつくづく因果な性格というか、読むことや書くことの業を背負った(?)男なのだなと思う。

ああ、自分を愛すること……かつてはそれができなくて、自分が書いたものに不満足を感じて捨ててしまっていたことを思い出した。「こんなものいつでも書ける」と思って……自然に考えれば若い頃に書くものは未熟ではある。故にクオリティは低いとも言える(むろん老いてクオリティの高いものを書けなくなる作家もゴマンと居るが)。だが、クオリティが低かろうがなんだろうが「自分が書いた」作品であり、尊いものなのだ。故に読まれる価値もあるし、この世に存在する価値もある。同じことは他人にも言える。たとえ世間一般の基準でクオリティが低いと見做されようが、作品が生み出される動機は大事にしたいものだ。