跳舞猫日録

Life goes on brah!

There She Goes 2

ぼくは日本語と英語で日記を書きます。言い換えれば、ぼくは日記のヴァージョンを2つ作ります。ある人がどうしてそんなことをするのか訊きました。ぼくは答えられません。これがぼくの毎日の日課になっています。ぼくは日本語と英語で日記を書くのを楽しんでいます。最初に、ぼくは日本語のヴァージョンを書きます(このヴァージョンが英語ヴァージョンの「草稿」かもしれません)。そして、ぼくはその日本語の日記を英語に訳します。

ところで、ぼくは片岡義男の力作『日本語の外へ』を読んでいます。片岡はこの本の中で、日本語は様々な状況や聞き手(あなたが話しかけている相手)に依存する言葉だと語ります。あるいは、日本語は「関係」に依存する言葉だと言ったほうがいいかもしれません。誰が「ぼく」で誰が「相手」か。この「ぼく」と「相手」の関係が日本語をコントロールしています。

もしこの論理(あるいは説)が正しいなら、これはぼくがよき日本語話者になれないことを意味しています。なぜならぼくはこのぼく自身とぼくの意見を大事なものとして扱っています。あるいは、ぼくはとても「意見志向」の人だと言ったほうがいいかもしれません。日本人はぼくのことをエゴイスティックでわがままだと言うでしょう。ぼくにとって、彼らはとても「カラフルな」人たちです。彼らは嘘をついて関係が要求する色に自分を塗ることができるからです。

ぼくはかつて、ぼくは恋をしたことがないと言いました。あるいは、ぼくは日本の女の子を愛したことがないと言うべきかもしれません。もちろん、ぼくは様々な女性たちと会いました。3人の女性を愛しさえしました。彼らは特別だったのでしょうか? そうです、まさしく。彼女たちは「日本人らしからぬ」人々でした。彼らは強い意見と個性を持っていました。それ故にユニークで魅力的でもありました。

愛を保ち続けることは、ぼくと愛される人が生む空気をコントロールすることです。なら、ぼくたちは「空気を読む」必要があります。これは発達障害者ができない(あるいは不可能な)ことのひとつです。だからぼくはとても奇妙な、ユニークなやり方で恋する必要があるのでしょう。でもどうやって?