マルコ・プロゼルピオ『バンクシーを盗んだ男』を観る。不勉強なものでアートには疎く、従ってバンクシーというアーティストについても大した知識を持っていないのだった。だがこのドキュメンタリーはそんなバンクシーについてレアな形でこちらに問題提起をしていると思った。バンクシーがアート界に混沌とした作品を投げ込むことによって起こっている問題を掴み、こちらに提示している。その形はしかしどこか「生煮え」のようにも感じられた。もう少し練り込めるのではないか……いや、「生煮え」は「レア」、つまり余計な加工がないとも捉えられるのでこのあたりでこの映画に対する評価は割れるのではないか。
バンクシーとは英国出身の覆面アーティストであるという。彼が絵を描くのはしかしカンバスに対してではない。建物の壁に絵をラクガキする「ストリートアート」と呼ばれる方法が彼の十八番である。ヨルダン川西岸地区のベツレヘムにある壁――パレスチナとイスラエルを分断する壁――に彼は絵を描く。バンクシーが絵を描くことでこの土地の問題が注目されると喜んでいた住民だったが、「ロバと兵士」という彼の絵が怒りを買い遂に壁から彼のアートが切り取られるまでに至る。「ロバと兵士」の行方は、そしてストリートアートの意味とは。この騒動は想定外の深い射程にまで届いていた。
私が住んでいる土地はストリートアートのカケラもない、極めて平穏に管理されたところである。つまり、バンクシーのアートが生まれる土地とはそのような「管理」に対する抵抗活動が起こっているきな臭い場所である、とも言える。バンクシー自身がそうした「きな臭さ」を背負った危険な存在である、とも。では、アート界の画商や評論家たちがそんなバンクシーを受け入れ、彼の絵を商品として取引し消費する事態は健全なのか。彼の絵はそのようにして資本主義の中に取り込まれた途端に価値をなくすのではないか。そんな際どい問題にまでこの映画は問いを投げかけようとしている。
したがって、この映画はベツレヘムの政治的ポジションやバンクシーの政治性(彼自身が問いを放つ存在として、私たちに「パレスチナ問題とはなんだ」と匕首を突きつけてくる)、そして資本主義のからくりにまで考察を行った映画と受け取れるのではないかと思う。悪く言えば盛り込みすぎなのだ。この濃度、バンクシーを知らない人、あるいは「なんだかよくわからないけれどカッコいい」とバンクシーを支持する人にどこまで届くのだろうとも思う。そもそもバンクシーの絵の価値がどこにあるのか語られないままなのも気になる(無批判に「権威」として彼の絵を崇める存在こそ、バンクシーが唾棄するものではないか?)。
盛り込みすぎ、かつ肝腎の問題を丁寧に語らず、情報量と考察の濃度で有無を言わせず凄みを効かせて迫る……そんな映画のように私には受け取れた。なら、そのような「凄み」が成り立つ肝腎の根っこの部分の「なぜバンクシーは凄いのか?」をも解説して欲しかったかなと思うところ。これでは私にとって(あくまで私だけだと思うが)「なんだかよくわからないポップアート」以上でも以下でもないキース・ヘリングの絵と本質的にはさほど変わらないものでしかない、とも思う。確かにバンクシーの絵には凄みがある。しかし、彼の出現にはタイミングもあっただろう。
とまあ腐してしまったが、ここまで「濃く」バンクシーを語ったという意味では優れた映画かなとも思ったのだった。バンクシーの言葉をスクラッピングしただけの志の低い映画ではない、とも。バンクシーを語る立場とは、実は(元々批評とはそういうものではあるのだが)その人が無意識的に安心できる立場、その人のコンフォート・ゾーンなのではないか。つまりバンクシーの語り方を通してその人の思想信条が明るみに出るということだ。なら、私のこの駄文も私の思想信条が透けて見えるものである、とも言えるだろう。多分そんな私の思想信条は「ミーハー」以外の何物でもないと思うのだけれど。