跳舞猫日録

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松永大司『ハナレイ・ベイ』

松永大司『ハナレイ・ベイ』を観る。原作は泣く子も黙るあの村上春樹の短編で、こうして観てみると本当に春樹をめぐる状況も変わったものだなと思わされる。なにせ「キューブリックがオファーしても断る」というのがかつての春樹だったそうだが、早い時期に『風の歌を聴け』は映画化されていたとはいえその後『ノルウェイの森』や『トニー滝谷』といった作品が映画化されることで春樹の世界はより親しみやすいものとなり、マニアックな作家から一皮剥けた(悪く言えば安売り/セルアウトした)のではないかと頓珍漢なことを書いてしまいたくなる。では、『ハナレイ・ベイ』とはどんな話なのか。


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ひとりのシングルマザーが居る。彼女には息子が居たのだが、その息子はハワイでサーフィンをしていて鮫に襲われて、片脚を食い千切られて亡くなってしまった。ハナレイ・ベイまで遺骨を引き取りに行った彼女は息子の死を受け容れようとなんとか奮戦する。そして10年間、毎年彼女は同じ時期になるとハワイのハナレイ・ベイを訪れ続ける。10年後のその日、ひょんなことから彼女は困っている2人のサーファーの学生を助ける。彼女たちは軽口を叩きつつも仲良くなるが、そのサーファーたちから彼女は片脚のないサーファーを見かけたとの情報を得る。それは果たして……というのがこの映画のプロットである。

村上春樹作品に関しては「むずかしい」「ご用心」という批評家の言葉があるが、基本的にはごくクリアな図式で語れると思う。私たちはややもするとせせこましい人間関係のネットワークの中だけを社会と見做し、そこで生きるために汲々とする。しかし、私たちは時折人知を超えた現象と出会う(幽霊を目撃するとか、偶然に翻弄されるとか……)。そのような現象は、私たちの人知を超えた次元に崇高な存在が居ることを思い知らせる。それは神かもしれないし精霊や邪神の存在かもしれないが、ともあれそういった「世界」を喚起させるものとの出会いが登場人物たちの日常を変える……というのがその図式である。少なくとも私はそう解釈している。

この『ハナレイ・ベイ』では、その「人知を超えた現象」はふたつある。一方では「世界」に存在する。居るのかもしれない息子の幽霊や、その息子を殺した島の自然そのものといった存在がそうだ。もっとも、この監督はそういった巨大な存在を描くことにはさほど関心がないらしく、ひと通り島の自然を描写してカメラの中に収めるという常套的な撮り方をしている。つまり超自然的な幽霊が登場する話ではない、というわけだ。もちろんそれはそれで原作のひとつの解釈の仕方だと思うし、もうひとつの「人知を超えた現象」を炙り出すことの方に主眼が置かれているとも考えられる。

もうひとつの「人知を超えた現象」とは、実は上述した図式に収まらないものなのだが「他者とはなにか」という究極の問いである(「なぜあなたはあなたとして立ち現れるのか」という問いとして解釈すればあるいは「世界」がもたらす問いなのかもしれない)。この映画に即して言えば、息子は一体なにを考えて生きてきたのか。サーファーが代表する「平和ボケ」した男たちは一体何者なのか。もっとマクロに言えば「男とはどんな存在なのか」(主人公や島の住民を除けば、この映画はかなり男臭い映画である)。その問いが丁寧に語られており、小ぶりだがしっかりしているという印象を抱いた。

だからこそ、そんな「他者とはなにか」「男とはどんな存在なのか」を問う映画は一見すると単なる/なんの変哲もないヒューマン・ドラマとして成り立っているように思われる。いや、まあ事務的に整理すればそうなるだろう。だが、私たちはあまりにも人の一面的な事情だけをその人の全体と取り違えすぎていないだろうか。どんな人にも知らない顔があり、語られない物語がある。息子を失った主人公はそのことを知り、知られざる世界の真実に向き合い、死を受け容れようとする。その過程が必ずしもわかりやすく語られているとは思えないが、しかし落ち着いた説得力を示していると評価したいと思った。