跳舞猫日録

Life goes on brah!

佐藤祐市『キサラギ』

佐藤祐市キサラギ』を観る。実に洗練された映画だと思った。特に凝ったカメラワークや奇を衒ったファッションでこちらの気を引くようなものではない。だが、それでいて野暮ったさがなくスマートにまとまっている。観ながら、タランティーノの逸品『レザボア・ドッグス』を想起した。ただ単に喪服姿(つまりスーツ姿)の男5人がたったひとつの話題であるアイドルの如月ミキについて話すという構成から、同じようにマドンナ「ライク・ア・ヴァージン」について与太話を繰り広げるタランティーノの映画のボンクラたちを思い浮かべたというだけの話だったりする……のだけれど、「オタク文化タランティーノが出会った」と考えればそんなものを接合してしまったこの映画の撮り手のセンスに脱帽するしかない。

知る人ぞ知るアイドル・如月ミキが居た。彼女はある日自殺を選び、孤独に死ぬ。だが、彼女にはファンが居た。彼女の記憶を留め続けて生きるファンたちがある日(彼女の死の一周忌)に、ネットで集いオフ会を開くことを計画する。そこに集まったのは5人のむさ苦しい男たち。彼らはワイワイとミキについて語り合うのだが、やがて彼らはそれぞれがどうも「単なるファン」ではなさそうなことを嗅ぎ分ける。彼らはそれぞれの正体をめぐってすったもんだの大騒ぎを繰り広げる。その大騒ぎは、やがて「彼女の死は本当に自殺だったのか」という大問題にまで発展するのだった……というのがプロットである。

まだしつこく『レザボア・ドッグス』の話をすれば、この映画は個室でストーリーが展開する。そこも『レザボア・ドッグス』に似ていると思った。だがこの映画ではドンパチは起きない。ただ、シリアスな中にギャグをふんだんに散りばめ、どんでん返しを含みつつコミカルにかつミステリアスにストーリーを展開するのだから『レザボア・ドッグス』には似ているといえば似ているのだが、どこまで制作陣が意識したのか深く読んでみるのも一興だろう。この映画ではオタク文化について語られるのだが、観ながら私自身のアイドル観とでもいったものについて考えさせられてしまった。

というのは私自身もアイドルに恋をしたこと、そしてファンレターを送ったこともあるからなのだった。そうしてファンレターを送って返事が来たり(ハンコで押したような定型文だったりするのがまた嬉しいのだが)、あるいはレアなアイテムを手に入れられたりすると「自分と彼女(彼氏でもいいのだが)との距離が縮まった」と嬉しくなるものだ。この映画でも家元というハンドルの純情なファンが自分のコレクションを見せびらかし、距離がいかに近かったかを誇示する場面が現れる。見ていてこっ恥ずかしいやら微笑ましいやら、イタいやらニヤニヤしてしまうやら、といった展開だ。

しかし、その家元は自分よりももっと距離が近いところに居た人物がこのリアルに居ることを知って絶望するのである。このあたり、「当たり前だ!」と一喝したくなる観客も居るのではないだろうか。ミキにはマネージャーが居たし、行きつけの雑貨屋の店員と仲がよく、彼氏も居たといった事実が次々に明るみに出てくることで、家元の心の傷は深まる。見ないで済ませていたかったけれど確実に存在していたことを認めざるをえない「リアルの知り合い」に、自分のような「フェイクなファン」は敵わないのではないか……と落ち込む。それを私は「当たり前だ!」と嗤うことはできない。ファン心理とはそういう「届かなさ」をわきまえたいと思いつつわきまえられないものだと思うからだ。

家元の中には、自分の頭の中というか脳内だけで完結していて欲しかった如月ミキが居る。そして、そのミキにファンレターを送って励ましてあげられていたことを素朴に嬉しく思う自分が居る。この映画はそんな家元の思い入れが決して無駄ではなかったことが証明される。アイドルにとって、自分もまた重要な人物だった……有難いことだと思う。「フェイクな知り合い」の自分の存在価値が「リアルの知り合い」と同等だったこと、自分だけがそんなリアルとフェイクの一線を超ええたことを知ったからだ。ビジネスライクな付き合いではなく、スラヴォイ・ジジェク的に言えば「崇高」な関係を結びえたということなのだから。