跳舞猫日録

Life goes on brah!

ベン・ウィートリー『ハイ・ライズ』

ベン・ウィートリー『ハイ・ライズ』を観る。いかにもイギリスが本気を出したような映画だな、と思った。俳優で映画を観る人間ではないのでトム・ヒドルストンジェレミー・アイアンズという名前も「なんのこっちゃ」だったのだけれど、作品の中で展開されるキレッキレの資本主義と合理化の戯画化と批判がモンティ・パイソンやその派生としてのテリー・ギリアム未来世紀ブラジル』をも彷彿とさせる。それを言い出せば原作はイギリスが誇るニューウェーブSFの重鎮J・G・バラードなのだ。しかし(というか、だからこそ?)出来上がった作品はなかなか歯ごたえがある。


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タワーと呼ばれる高層マンションが舞台となる。そこは建物内にプールやスーパーマーケットを保持し、ゴミ捨ても合理的なプロセスで行われる(故に綺麗な状況をキープできる)夢のようなマンション……のはずだった。だが、高い階に住む富裕層と低い階に住む貧困層はふとしたことからいがみ合いを始め、電力が足りなくなるしわ寄せが下層の住民に及んだことから対立はますます悪化する。いがみ合いはやがて暴力沙汰や殺人にまでエスカレートし、綺麗なはずだったマンションはメチャクチャ。乱交と汚辱の限りを尽くすカオスの様相を呈するが、誰もなぜか出ていかない。そんなストーリーだ。

このスジの整理から容易く見て取れるように、この映画は資本主義がもたらす帰結としての格差社会……いやもっとそれがエスカレートした階層社会を描いている。もちろん、こうしたアプローチは近年の達成では『パラサイト 半地下の家族』があったわけで目新しいものではない。しかし、高層と下層とに綺麗に分かれたというわかりやすい状況が事態をコミカルにかつグロテスクに描き切るという意味でこの映画は面白い。これはコメディだ。だが、とても悪趣味で気の利いた、という但し書きがつくが(その意味ではやはりモンティ・パイソンの国の底力が見えるなという気がする)。

私は体系立てて映画を観る人間ではないので、デタラメな映画があれこれ連想される。洗練された悪趣味、あるいはハイソな意地悪という意味でならトリアーやハネケ的でもあろう。硬質の映像で魅せるという意味ならクローネンバーグだ(ああ、クローネンバーグは『クラッシュ』でバラードを映画化している!)。いずれも一癖も二癖もある監督ばかりで、こうした監督を私の脳内に召喚させたこのベン・ウィートリーは只者ではないなと思った。やや策に溺れすぎているところがあるとは思うものの、きっちり人間の本性を見据えてグロさも含めて映画にしたところは買いだと思う。

それにしても、イギリス人気質とはなんと業の深いものだろう。この映画で最後の最後に(これはネタバレにはならないとは思うが)サッチャーの演説が登場する。国家を跨いだ資本主義の優位を唱える演説だ。国家が統率しない資本主義はそれ故に、世界そのものを資本主義の暴走に任せるままにさせることを意味する。それがどのような社会に至るかは経済学の知識がなくてもある程度見えるのではないか(あなたが今使っているインターネットが、まさに国家を超えた情報の流通故に世界を無政府主義アナーキーにさせつつある現状がヒントになるのでないだろうか)。フランスの諺、「物事は変われば変わるほど同じ」という言葉を思い出す。

残酷に言えば、少し手強い映画でもある。一体なにが起こっているのか肝腎の語り部である主人公がピリッとしないせいでわかりづらいのだ(このあたり小説ではどうなっているか未読なので知らないのだけれど、「内的独白」に頼らずに事態の凄惨さと滑稽さを描こうとしたが故に「主人公がなにを考えているかわからない」という陥穽に陥ったのではないかなとも思う)。故に私の信頼するFilmarksでの低評価も納得が行くのだけれど、私はこの映画の底力をナメてはいけないと思う。この映画をナメることはイギリス人気質をナメることである。このブラックさを楽しめるかどうか。私も最後まで観終えて、毒を存分に味わった。