跳舞猫日録

Life goes on brah!

M・ナイト・シャマラン『オールド』

M・ナイト・シャマラン『オールド』を観る。何だかコロナ禍をそのまま隠喩/メタファーとして使ったような映画だと思った。仕掛けは簡単で、「1日にほぼ人間が一生涯に該当する歳を重ねる海岸」に閉じ込められた数人の老若男女たちのパニックを描き、そこから果敢に脱出しようとする姿を描いた映画だ。だが、ちゃちなB級ホラーと侮ってはならない。そこは流石に『シックス・センス』以来数々の問題作を発表して世間をあっと言わせてきたシャマランだけあって、様々なことを深読みさせる魅力/魔性を備えた映画であるとも思ったのだった。そして何よりも面白い。


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コロナ禍の隠喩/メタファーとはどういうことか。私たちは言うまでもないがこのコロナ禍でずいぶん痛めつけられてきた。行きたいところにも自由に行けず、「お家時間」「ステイホーム」と言えば響きはいいが実はじっと自分の部屋に閉じこもって耐え忍ばなければならない暮らしを強いられてきたのだった。それはそのままこの映画の老若男女の姿とカブる。彼らもまた、閉塞した環境であるビーチに閉じ込められ、逃げ場がないままじりじりと歳を(いたずらに)重ねなければならないという状況に陥っているのだった。そして私たちのうちの何人かはそんな状況で死ぬことを強いられる……。

シャマランの映画を私はこれまでさほどきちんと観てこなかったのだけれど、それでも彼を応援したくなるのは彼の映画が(時にはビターテイスト/バッドエンドめいた終わり方をするとしても)、主人公の中に内在する力を覚醒させるメカニズムに則って展開するからである。『シックス・センス』で死体を幻視できる主人公はその力を生かして死者の代弁を行い、『アンブレイカブル』でもアメリカン・コミックスよろしく主人公を活躍させる展開でこちらを唸らせる。『オールド』も基本的にはそうして主人公たちが持ち前の知性と勘を駆使してビーチから脱出しようとする。

だが、その線から見ると今回の映画はそんなに主人公たちが「ギフテッド」というか天賦の才に恵まれたというわけでもなく、どこかピリッとしないきらいがあった。いや、このあたりはシャマランにとっても難しいところだったのかもしれない。ビーチの魅力/魔性が強大になればなるほど、そのビーチを脱出しようとする人々の能力も過大にならなければならないというジレンマがありうるからだ。だからやや物足りないと思ったのだけれど、でも細かいところまで注意深く作られた映画であるとは思う(乳歯が永久歯に生え変わる過程はどうなったんだ、とツッコミを入れてはしまったものの)。

それにしても、シャマランの映画の子どもたちの何と無垢な……いや、無垢というより天真爛漫というか、キラキラ輝かんばかりに魅力を振りまいているところに興味を感じる。『シックス・センス』の幽霊の男の子、『ヴィジット』の姉弟、そして今回の子どもたち。これはつまりシャマランが子どもたちをいかに知り抜いているかということを意味するだろうし、もっと言えばシャマラン自身が子どもの感性を持っているからではないだろうかと邪推してみる。ゆえにこの映画は実にブラックな展開を見せるわけだが、不思議と後味は悪くない……どころか、この映画が新たなシリーズの前日譚ではないかとさえ思わせる。まだ始まったばかりなのではないか、とも。まあ、そんな観客は私だけで充分だが。

ここから先、オチをある程度割る。実を言うとこの映画の真相はそのままワクチンをめぐって私たちが描きがちな陰謀論とクリソツな様相を呈する。もちろんシャマランはそうしたフェイクニュースや匿名掲示板めいた陰謀論に「わかっていて」乗っかっているわけだが、これもまたコロナ禍があってこそ生まれた映画であることは確かかな、とも思ったのだった。ゆえに、私たちはこの映画を観て勇気づけられる。大人たちの陰謀を暴くのが、実はそんなこととはとんと無関係に書かれた子どもたちの暗号である、というこの映画の構図に刮目せよ! ……と無意味にキバって落とすことにしたい。

濱口竜介『ドライブ・マイ・カー』

濱口竜介『ドライブ・マイ・カー』を観る。情けない話だが、私は実は濱口竜介を語れるほどコアに鑑賞を深めた人間ではない。『ハッピーアワー』も『寝ても覚めても』も1度ずつしか観ていないのだった。だが、『ドライブ・マイ・カー』はそんなアマちゃんの私でも楽しめる間口が広い映画だと思った(が、結構濡れ場がキツいので子どもには観せない方がいいと思う)。私はなにを隠そう30年くらい村上春樹のファンとして生きてきたので、この映画化はとても興味深いものとして映った。もちろん問題もある。だが、単に表層を舐めただけの映画化として終わってはいないところは流石だなとも思ったのだった。


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テーマを粗く整理するなら「喪失と再生」ということになるだろう。演劇の俳優及び舞台演出家として活躍する家福という男を主人公に据えたこの映画は、まず彼の妻である音が亡くなるという出来事を冒頭に据える。そこから時間を飛ばしつつストーリーは展開していき、家福が演出するチェーホフの『ワーニャ伯父さん』のストーリーと現実のストーリーが時に微妙にシンクロする形で語られていく。そこから村上春樹の短編「ドライブ・マイ・カー」や「シェヘラザード」が召喚されてストーリーは更に混沌としたカオスを映し出していく。これがこの映画のプロットである。

「喪失と再生」はなにも家福が妻を失ったことだけに限った話ではない。この映画では家福と過去に交際のあった(そして、音の不倫相手ではないかと疑わずにはいられない)高槻という男が登場する。彼もまたキャリアをステップアップさせる段階で躓き「喪失」を味わった人間であり、それ故に「再生」を賭けて家福の厳しいしごきに耐えてワーニャ伯父さんを演じようと目論むのだった。あるいは、家福の車を運転する役割を務める渡利みさきもまた(彼女が後に述懐するように)「喪失」を味わってしまった人間で、故に「再生」を目指して家福と親睦を深めていく。

そうして、三者三様の「喪失と再生」が微妙に軋みながら語られていくところにこの映画の味があると言える。悪く言えば実に計算高く作られたあざといホンがベースになっているとも言える。この映画ではそうした登場人物たちが軋み合う様が強調される仕掛けがもうひとつある。それは『ワーニャ伯父さん』が外国人や聾唖者たちとのディスコミュニケーションを通した演劇として結実するところにある。手話や外国語が入り乱れるカオスな、それでいてその中にきちんとした美学が貫かれた演劇として描かれるのだ。このディスコミュニケーションぶりは特筆に値すると言える。

「喪失と再生」、そして「ディスコミュニケーション」。これは『ハッピーアワー』で震災を描きそこから「喪失と再生」を描いた濱口竜介監督らしいテーマだと言える。いや、こんなガバガバにゆるいキーワードを貼り付けてドヤ顔でなにかを語る私のような人間こそちゃんちゃらおかしい、というものかもしれない。が、一歩間違えるとセンチメンタルなお涙頂戴に陥りがちなテーマをここまで品をキープしながら3時間引っ張ることができているのだからこれは濱口監督の力量の表れと言えるのではないか。私自身、時に退屈しかけたところがあったもののこの映画を楽しむことができた。

だが、手放しでのめり込めたかというとそうでもなかったのだから私はひねくれ者なのかなとも思う。やはり長過ぎるというのもあるし、この長さを退屈させることなくフックを工夫して釣っていくにはこの映画は謎がなさすぎるような気もしたのだった。音の秘密もみさきの家族の過去も、カットバックを交えて語られるでもない。平坦に「今」から「未来」へと一直線に流れる時間の中に押し込まれるだけで、したがって物語的な面白さ/エンターテイメントとしては今ひとつフラットに過ぎるのではないかな、と思う。このあたり、多分に好みの問題もあるのかもしれないのだが……。

小津安二郎『東京物語』

小津安二郎東京物語』を観る。今回の鑑賞では「時が経つ」ということについて考えさせられた。時間が過ぎるということ。言うまでもなく人類史上時が止まったことなんてないわけで、時間が経過することと私たちの生活は密接につながっている。時が経てば子は育ち大人へと成長していく。その大人になった子どもは(場合によっては) 彼ら自身の子を設ける。そうして親から子へ、その孫へと様々な知識や知恵が受け継がれ社会はめぐっていく。『東京物語』はそうした、親から子へと受け継がれるべきものがなんなのかといったモチーフを描いているように思われる。多彩な観方ができる映画だと思うが、そのひとつは「親から子へ」(あるいは「子から親へ」?)託されるものはなんなのかを問うてみる観方だと思う。

尾道という地方から東京に出てくる両親が居る。彼らは東京で忙しなく暮らす子どもたちに邪険に扱われながらも、子どもたちの成長に目を見張りニコニコと甘受する(それは必ずしも「目に入れても痛くない」という愛情だけではなく「こんなはずじゃなかった」という後悔も含みうるだろう)。『東京物語』をものすごく乱暴に粗略するならこうしたスジに収まる。だが、この映画はこうした粗略に収まらない「猥雑」というか「豊満」な細部があってこそ成り立つものだと思うのだ。熱海の旅館で深夜に他の客の麻雀の音がうるさくて眠れない、といった(喜劇を出自とする小津に相応しい可笑しみのこもった)展開などだ。

これもまた当たり前のことを書くが、私たちの人生は絶えず「変化」し続ける。吉田健一が喝破するまでもなく、私たちの世界に時間が流れていることの証左としては私たちが常に一箇所に留まらず「変化」し続けているからに相違ない。「変化」し続ける世界の中では私たちもまた「変化」することが強いられ、あるいは自ら望む形で「変化」していく。それを人は成長と呼ぶわけだが、『東京物語』の中でも登場人物たちは「変化」し成長を遂げる。親を慕い甘える子どもたちだったのがいつの間にか親を疎んじ、適当に熱海あたりに追いやっておけばいいと高を括るというようにだ。

「変化」することが時間の経過を意味する……そしてその時間は過去から未来へと流れる。尾道から現れた祖母と彼女が愛おしく思う孫との場面、祖母は独り言のように孫が大人になった時は自分はもう居ないのではないか、という言葉を口にする。この映画では135分という尺の中にドラマを収めている以上、下手をするとその短い時間の中だけで完結したドラマに収まる危険性がある。2時間ちょっとで語れることなどたかが知れている、と。だが、上述した場面の独り言のようにそうした「2時間ちょっと」の映画の枠を超えた時間の経過を想像させてくれる場面がある。これは極めて示唆的だ。

この映画が単なるホームドラマの枠を超えてスケールの大きな、叙事詩のような煌めきを見せるのはひとつにはそうした時間の経過をイメージさせてくれる細部があるからではないかと思う。この映画では最後に祖父が義理の娘に対して時計を渡す場面がある(むろん、私の妄言とは関係なく時計は「時間」を刻み示す道具である)。この委託が、親の世代から次の世代へと大事なものを渡す場面として現れ、引いては親から子へとバトンが渡される象徴的な意味を示しているように思われる。そして時計を渡された原節子は年を取り、子(あるいは血縁がつながっていなくとも次の世代の人間)にその時計を託すかもしれないのだな、とこちらをして想像させる。

そうして時が経ち、親が亡くなり子は育ち、そして場合によっては新たな子を設け、社会は回っていく……これを「循環」と呼びたくなるのはあるいは悪い癖だろうか。だが、『フェリーニのアマルコルド』を想像させる(あるいは後の世代の是枝裕和の、とりわけ『ワンダフルライフ』でもいい)時間と世代にまつわる深遠な真実を綴ったかのような『東京物語』を、今回も観直してみてやはり侮れないと思った。それでいて同じようなテーマを扱っても黒澤明のような説教臭を感じさせない平坦な中に深遠さを孕んだホームドラマであることもポイントが高いと思ったのだった。

エレイン・コンスタンティン『ノーザン・ソウル』

エレイン・コンスタンティンノーザン・ソウル』を観る。いつもながら私の個人的な繰り言を書くと、私自身この映画のジョンとマットのようなボンクラな男の子だった頃があった。変わり者と呼ばれても自分のテリトリーを守り続け、マニアックな音楽に走りその趣味を極めようとする。あまつさえその趣味をなんらかの手段で広めよう、発表しようとありがた迷惑なことを考える(この映画の中のふたりはDJで、私の場合はミニコミだった)。なにが人をそうさせるのか。それは永遠の謎だ。ではこの『ノーザン・ソウル』で描かれる「永遠の謎」としてのDJは私たちを酔わせる類のものだろうか。


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時は1970年代半ばのイギリス。経済は相変わらず頭打ちのままで、国自体が低迷したムードに包まれていた。主人公のジョンは内気な男の子。憧れの女性に告ることもできず、変わり者と呼ばれて疎外感を感じながら退屈な日常生活を過ごしていた。彼はひょんなことからマットという男の子と出会う。マットを通じて彼は「ノーザン・ソウル」というソウル・ミュージックを知る。退屈な生活を一新させるクールなソウルのサウンドにジョンは夢中になり、ふたりはクラブを経営しより広く彼らの趣味全開のクールなサウンドで人々を踊らせようと闘志を燃やすことになる。だが、それは(言うまでもないが)そう甘い道のりではなかった……というのがスジである。

DJを描写する、というのはなかなか難しい。というのは、DJがやっていることと言えばただレコードを回すことだけだからだ。いや「そんな単純な話じゃないよ」と言われるかもしれない。レコードを選ぶのだって、絶妙なタイミングを狙ってかけるのだって、観客の踊り具合に応じてセットリストを構成するのだって並大抵のことでは務まらないよ、と。それはそうなのだけれど、ロックバンドの演奏のような華々しい「動作」を撮れるわけではなく全ては「レコードを回す」という地味な作業を映すことに落ち着いてしまうという点は動かない。DJの知能犯的なプレイの醍醐味など、映画では表現のしようがないのだった。

故に、この映画のジョンやマットのDJのプレイもなんの工夫もなくただノーザン・ソウルの音源を流すだけという、そんな次元に落ち着いているように思われた。それ故にどこかこの映画のクラブのフロアの光景は盛り上がりというか精彩を欠く。もっとオタク的な些末な情報を散りばめてこちらを圧倒させるマニアックな遊び心があってもよかったのではないか、と思う。これでは悪い意味で間口が広いというか、水で薄めたようなマニア心の発露に終わってしまっているように思う。肝腎のノーザン・ソウルサウンドが半端なくカッコいいだけに、余計にこの工夫のなさが残念に思われた。

そうした音楽に愛情があるんだかないんだか(もちろんありすぎてマニアックに走るのも興醒めなのだけれど)わからないこの映画の弱点は、そのままこの映画の設定の弱点ともつながっているように思う。簡単な話で、この映画では事態の深刻さがイマイチ伝わりづらく感じるのだ。なぜジョンとマットはアメリカに憧れるのか? 彼らは普段どんなことを考えてなにを目的に生きているのか? そういったことが見えない。キャラが立っていないというか、彼らを突き動かす人間臭い情念が見えない(それは単純に「エッチしたい!」という類のものでもいいのだ)。結果として彼らがなにを考えているのかよくわからないままで終わっているように思う。

つまり、人間が描けていないということになろう。それならそれで音楽のカッコよさで牽引する路線を歩んでもいいと思うのだ。だが、音楽に関してもマニアックな扱いから来る「濃さ」が感じられず薄口でまとまっているように思う。結果として全てがどこか物足りない、淡白な映画で終わってしまったように思われて残念だった。しかしこの映画を通してノーザン・ソウルサウンドに触れられたのは収穫だったので、駄作・愚作と斬って捨てる気にもなれないのが困ったところなのだった。音楽が好きな人なら楽しめるかもしれないが、楽しめないとしてもそれは音楽がわかっていないことにはならない映画であるとも思う。

ミミ・レダー『ビリーブ 未来への大逆転』

ミミ・レダー『ビリーブ 未来への大逆転』を観る。人間の可能性とはなんだろう、と(柄にもなく)考えてしまった。自分なら自分の中にどんな力が眠っている、と言えるのだろう……この映画は法廷劇をキモに据えたヒューマン・ドラマである。故に、丁々発止の論戦/心理劇が展開される法廷劇の旨味と、彼らの生き様を描くドラマの旨味が溶け合ったつくりとなっている。アクションが起こらないという意味で(派手なキスシーンなどの色気がないこともあって)地味ではある。だが、また改めて書くが上述した人間の可能性の不思議について考えさせる、侮れない映画であると思った。


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ルース・ギンズバーグ泣く子も黙るハーバードに入学した才媛。だが、女性だからという理由で一段低く見られざるを得ない。教室で質問しようとしてもなかなか指されなかったり、あるいは建物に女性用トイレがなかったり、なにかとイヤミを言われたり……そんな彼女を支える(今の目から見ても充分に「進んで」いる)マーティンとの間に授かった子どもを育てながら彼女は法律を勉強していた。マーティンも学生だったのだが精巣ガンで倒れたことで、ルースは彼の分まで講義に出てノートを取り勉強を重ねる。天才性と不屈の闘志に満ちた彼女は、ある日とある案件から性差別を法的に覆せる可能性を見つけてしまう。

実を言うと最初のうちはやや不満というか、物足りないものを感じた。なぜルースが学び続け、常識に逆らい続けるのか今ひとつわからなかったからだ。むろん彼女はユダヤ系の女性というマイノリティなわけだが、それだけが原因だとは受け取りにくい(そういう人は彼女だけではないだろう)。しかし、映画の中で彼女が子どもの頃母親と議論をして育ったというところでピンときた。彼女はその母親を通して、物事を批判的に捉えあるいは(矛盾のある言い方になるが)「あるがまま」に見る力を養ったと言えるのではないか。だからこそ娘に対して厳しく躾けたのではないだろうか。

その娘は果たして、街頭でセクハラそのものの言葉を浴びせられる。そばに居た母親は無視することを薦めるが、「無視しちゃダメ」と反論し男に言い返す。ここで見えるのは、ルースの反骨精神が娘に見事に伝わったという事実である。親から子へ、その子から更に子へ。こうしてスピリットは受け継がれていく。それが見えたことでこの映画の見通しはクリアになり、私もルースが家族と一緒に歩む紆余曲折/試行錯誤を見守れるようになったと思う。このあたりがややさり気なさすぎるというか、もっと回想シーンを挟んでもよかったのにと思えたところがこの映画の辛いところかな、とは思う。いや、玉に瑕ではあるのだが。

ルースが挑む判例は、母親の介護をする男が控除の対象から外されているというものだった。男なら働いて稼げるだろう、という古い偏見/常識からくるものだ。これはそのまま男性差別でもある。「性差別は男をも苦しめている」というような台詞もこの映画では登場するが、女性であるルースがそうした自身のアイデンティティを越えたリベラルな視点を持ち、本質を見抜いたことは「慧眼」と言える。今なおこの偏見/常識は「女性は家族を守る立場」というような言い回しで残っているかもしれないことを思えばなおさらである。こんな人が実在したのか、と唸らされてしまった。

だが、この映画が本当に感動的な点はルースが弁論の過程で、判決に登場する介護に負われる男性が本当に自分らしく生きられる可能性を発揮できる社会が到来するよう説いたところだと思う。返す刀で彼女が意見を訴える政府に対しても時代に応じて変わること、変わりうるからこそ彼らがより幸せになりうることを説いたことも見逃せない。変われるからこそ、可能性を発揮できるチャンスが生まれる。そんな人間本来の可能性をポジティブに説いたところにこの映画の凄みがあると思った。地味な法廷劇を通して、言葉巧みにそんな可能性を説いた感動はなかなかユニークなものだった。

ジム・ジャームッシュ『コーヒー&シガレッツ』

ジム・ジャームッシュ『コーヒー&シガレッツ』を観る。「コーヒーとタバコ」。このふたつの共通点はというと多分(あくまで私見だが)庶民の娯楽であり、中毒性があること、体に悪いことであるだろう。私は親の躾の影響でタバコというものとは無縁に生きてきたのだが、酒を浴びるように呑んできた時期があるのでこういう「中毒性がある」「体に悪い」「庶民の娯楽」のことはそれなりにわかっている。特に理由などなくても喫茶店やコンビニでコーヒーを買い、タバコを吹かし気分を一新させる。これはもう(映画内で言及されているが)「おしゃぶり」みたいな厄介なものであり、でも生活に欠かせない大事な要素なのかもしれない。

11の短編が収められている。どの短編も明石家さんまばりにイラッと「で、(この話の)オチは?」と訊きたくなってしまうような、そんな癖のある短編だ。ふと出会った相手に自分の代わりに歯医者に行ってもらうナンセンスな話、双子の黒人に「エルヴィスが双子だった説」を説く男の話。イギー・ポップトム・ウェイツが豪華に共演した、だけど中身は「なんのこっちゃ?」な会話。そういうのが延々と続く。どこが面白いのかわからない。のだけれど、これがジム・ジャームッシュと演じる俳優たちの手にかかればマジカルになるのだから映画というのはわからない。「なんとなく」最後まで観てしまった。

多分、その「なんとなく」観てしまう原因は「なんとなく」観ることを許す独自のこの映画の「ユルさ」からなのかもしれない……これもまた「なんのこっちゃ」な理屈かもしれないが、ジム・ジャームッシュといえば今や泣く子も黙る巨匠。そして、その評価に違わずきっちりコンスタントに映画を撮り続け評価を得ている人物である。だが、この「粋人」の映画はそんな「巨匠」の風格を感じさせない独自の「ユルさ」を備えていると思う。はっきり言ってしまえば隙だらけなのである。ここまで飾らず、それでいて凝った撮り方をするのはワン・アンド・オンリーなのではないか、とも思う(いや、彼とて例えば小津からの影響は受けただろうが)。

『コーヒー&シガレッツ』の撮り方の凝り方で言えば、例えばふたりがコーヒーを飲みながらダベっている時にさりげなく両者のコーヒーの減り方が違っていることを見せるところが気になる。いや、あんなもの演者のアドリブでしょと言われるかもしれないが、この減り方ひとつが映画のアクセントになっているのだから侮れない(その人物がどれだけコーヒー好きか、というようなことを考えさせるわけだ)。机の上に無造作に開いた雑誌のページに銃の写真が載っているところ、これだけで登場人物のキャラを匂わせる見事な演出となっているように感じられる。このあたり、実に渋く細かい。

アドリブ、でふと思ったのだがこの映画の会話はどこまで俳優陣のアドリブなのか、私にはわからない。まさか丸ごとアドリブな話などないと信じるが、仮にホンがあろうがアドリブだろうがこの会話の一癖も二癖もある噛み合わなさ、独自の気まずさ、だが険悪になりすぎない渋みは奇跡としか言いようがない。変な例になるが、いくら『ハムレット』が傑作のホンであると言ってもド素人が演じれば悲惨なことにしかならないのと同じで、ステージ/撮影現場を渡り歩いて演技を肉体で「体」得した演者だからこそ出せるマジックというものがあるのだと思う。マジック故に私のようなアマちゃんには語れない領域なのだが。

それにしても、この映画を観ていると人間って色々あるなと思わされる。いつものように当たり前のことを言うが、私なら私は46年間生きてきたのでその生きてきた経験が身体に刻み込まれている。もちろんかなり忘れ去られただろうが、兎も角も見聞きされ身体に叩き込まれてきたものが私の肉体や精神を作っている。この映画はそうして個人の中に歴史があること(「人に歴史あり」だ)を教えてくれる。誰の中にも人生があり、そこから演繹される哲学がある。そんな個性/個々性のかけがえのなさを教えてくれる、繰り返すが「粋人」故の脱力/まったり映画であると受け取った。

ジョエル・コーエン&イーサン・コーエン『インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌』

ジョエル・コーエン&イーサン・コーエンインサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌』を観る。またしても自分語りがマクラになるが、生きていて時折「おれって一体なにをやっているんだ……」と思うことがある。こんな人生を送るつもりなんてなかったのになあ、と。子どもの頃に思い描いた未来予想図では自分は結婚し、作家として名を成し、子どもを授かり一戸建ての家を持ち……のはずだったのにもちろん現実はそうはなっていない。のだけれど、その理想(妄想?)と現実のギャップからくるやり切れなさを呑みこんで生きるのが人生なのではないか、と考えるようにもなったのである。


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タイトルが示すようにこの映画の主人公の名はルーウィン・ディヴィスである。ひとりのしがないフォークシンガーなのだけれど、映画は彼を見舞うミクロなドラマをクールなタッチで描写する。主に寒々しいニューヨークで展開されるドラマはこちらも観ていて寒さが感じられるようで、リアルにできている。だが、ルーウィン・ディヴィス(オスカー・アイザック)が歌うフォークソングの数々がこの映画に独自の温もりを与えているように思う。そして、この映画は猫が印象的なアクセントを与えている(しなやかな肢体の動きがこちらに温もりを伝える)。その意味でもクールさとホットさが独自のバランスでブレンドされた見過ごせない作品となっているように思う。

本当に、これといってスジなんてあってないような映画だ。預かっていた猫が行方不明になる、恋人(元カノ?)が妊娠する、レコーディングに参加する、成り行きで珍道中を走りシカゴで歌を披露する……そんなとりとめない出来事が串刺しになった作品なので、一見すると退屈なミニマリズムで終わってしまいそうな話でもある。だが、そこがオフビートというか、「ジム・ジャームッシュの世界を角度を変えて撮ったらこうなるのかなあ」と思わせられたりするのだから映画というのは面白い。コーエン兄弟は食わず嫌いで『ファーゴ』程度しか観ていなかったのだが、これは迂闊だったと恥じさせられた。

それにしても、人生とはままならないものだ。頭の中で算段を整えて動いても、必ずその算段(昔流行った言葉を使えば「想定内」)に収まらない出来事が展開される。もらえるはずの金がもらえないかと思えば失踪した猫が見つかったり(だが、これはぬか喜びに終わるのだが)、意外なところで辻褄が合うような合わないようなそんなデタラメさを見せる。だが、それこそが私たちの人生ではないだろうか。なにもかも思い通りに、別の言い方をすればシミュレーション通りに行くわけではないから人生は面白い。故に、この映画は(大げさな言い方をするが)そんな「思い通りに行かない」人生を悪態をつきつつ生き抜く知恵を示しているように思う。

いつも映画について語り始めながら私のことしか語れていないのがもどかしいのだが、この映画についてはその悪ノリが更に加速しそうだ。ジム・ジャームッシュの世界の再解釈、と書いたが別の角度から語ればこの映画はアキ・カウリスマキの美学にも似ている気がする。ささやかな日々の出来事の中に「なんだかなあ」とため息をつきつつも楽しみや喜びを見出し、「こんな毎日にとりあえず文句つける」(フィッシュマンズ)姿勢で生きること。ジム・ジャームッシュカウリスマキの境地でアメリカの若手のミニマリズム小説を撮ったかのような、そんな味わいを感じる。

だが、のんきなことを言いたいのではない。この映画でのルーウィン・ディヴィスの元相棒が自殺を遂げたことが知らされ/書かれていることからもわかるように、コーエン兄弟の目はこの世の残酷さにも向けられている……いや『ファーゴ』の監督なんだから当たり前じゃないかと言われるかもしれないが、そのシビアな視点があってこそ光り輝くフォークソングの世界であり「終わりなき日常」そのもののダルい生活ではないかと思ったのである。コーエン兄弟ヒューマニズム的なアプローチを採りつつも甘っちょろくない、かくも渋みのある映画を撮ってしまう。なかなか侮れないと思った次第だ。