単純な生活

Life goes on brah!

20251114

知られるように睡眠は非常にだいじである。ことにぼくの場合、もう50歳にもなると徹夜や夜更かしなどで無理をするわけにもいかない。なので今日も今日とてゆっくり眠り、午前7時にシャワーを浴びてその後洗濯機をまわして昨日着ていた服を洗濯し始めた後、7時50分からの英会話のZOOMミーティングに参加する。今日の話題は俗に言う「金縛り」について(身体は眠っているのに脳だけが覚醒して、そのせいで手足が言うことを聞かないという現象の話)だった。そこから話題が幽体離脱やはたまた宇宙人(エイリアン)の目撃談、UFOについて、中国製の介護ロボットについてなど自在に発展してなかなかおもしろいひと時を過ごせた。

その後、今日は遅番なのでグループホームの本家にお邪魔させてもらいそこの食堂を借りて物思いにふける。お供として小川和『日常的な延命』を持ち込みすこし読んだのだけど、いまのぼくの問題意識にピッタリ寄り添うたぐいの本であると見た。これはだいじに読みたい。ただ、以前から書いているように5連勤の疲れがまだ抜けておらず、なんだか脳が不完全燃焼を起こして思考がまとまらずしたがってせっかくの好著との出会いを生産的に活かせず、かえって無為に時間が過ぎてしまった。しょうがないのであきらめる。そんな日もあるのだった。

早目に本家を発ち、図書館に寄りそこでウィル・エルスワース=ジョーンズという耳慣れない方の大判の本『失われたバンクシー』を見つけ、さっそく借りる。そして昼食までの時間にそれをすこしめくってみたのだけど、これもまたなかなかおもしろい。思えばバンクシーのアートとはどう位置づけられるのだろうか。例外もあるけれど、たいていはバンクシーの作品は街路(ストリート)に突如としてあらわれ話題をかっさらうたぐいのもので、つまりはお高く止まった「芸術」とは異なる位相に属する。すくなくともぼくはバンクシーのアートをその質ももちろんさることながら、彼の一挙手一投足じたいが問題をはなつものと見做している。

ゆえに、バンクシーのアートを見るということはそれをいたずらに権威化するということではなく、自分自身でバンクシーのアートのメッセージ性や意義を考え抜く作業をするということなんだろうと思う。もちろん、それは端的に言って非常にめんどくさい(そしてもちろん、そうして考え抜いた結論がバンクシーのアートにまったく似つかわしくないものである可能性、もっと言えば「間違い」にたどり着く可能性もある)。ただ、そんなふうにバンクシーをぼくなりに読み解く作業をとおしてぼくはいろんなことを学ばせてもらったし、これからもそうなんだろう。

その後昼食時になり、この5連勤などでいそがしくて溜まってしまっていたWhatsAppやWeChatなどのメッセージの返事を書いて友だちに送る。その際、国際交流協会をとおして来月おこなわれるイベントの話(ぼくもアシスタントというかボランティアとして参加する)の話をしたりした。英語を学んで10年。前にも書いたけれど、こんなかたちでぼくの夢はすこしずつ実現に向かうのかなあ、と感慨にふけってしまう。まったく予想してなかったことだけど。

それで1時より仕事に入る。そして仕事中、ふと「そもそも、なんであんなにつらい地獄の思いを子どもごころに味わいながら学校に通ったのかなあ」とあれこれ考えてしまった。あくまでぼくの主観から見れば、もちろんぼくにもいたらないところはあったのだろうけれどなんだかクラスメイトが急にパタパタとぼくの元から去っていって嫌うようになったので、悪い夢を見ているような不条理な気分だったことを思い出す。そこから嫌われる原因をぼくなりにあぶり出そうとしたり、なんとかして感情の「言語化」に励んだりもした。そのクセがいまでも抜けていないということなんだろうと思う。

ぼくのことを嫌う理由がまったくもってわからない……それは(学問の安易な援用・濫用になるが)「空気」「雰囲気」でぼくが嫌われる存在として位置づけられ、そこからぼくになんら釈明の余地もあたえられず、人間関係が固定された環境でただただスケープゴート(生贄)になるしかないということを意味するのだった。そうした洗礼を子どもの頃に浴びたせいか、その後大学生になっていじめと無縁に生きられた環境であっても自分が嫌われているのではないかとかいう不信感にさいなまれて、エラい目に遭ったことを思い出す。

そんなことを英語でいつものようにメモパッドに書きつけていく。スケープゴートならばそれはそれでしょうがないと、そこから「剽軽(ひょうきん)」を演じて生き延びようとしたこともいい思い出である。40代になってやっと、もちろん大々的なカリスマになるなんてことは望めないにせよ、自分のまま・ありのままで生きることがいちばん疲れないしそれに信頼できる人を見分けられるリトマス試験紙にもなるとわかってきたのだった。ああ、そんなことをわかるのに40年もかかった。長かったなあ。

そんなこんなで仕事をこなし、そして帰宅してしばしくつろいでこの日記を書いて、そして1日が終わった。ちなみにいまも昨日と同じようにダニエル・ラノワの楽曲群を聴いている。前にハマったブルース・スプリングスティーンネブラスカ』といい、こういう路線が病みつきになるようだ。

20251113

いつもと同じように朝7時にシャワーを浴び、その後洗濯機をまわして昨日着ていた服を洗う。そして7時50分から英会話のZOOMミーティングに参加する。今日の話題は旅館での有意義な過ごし方についてで、ぼくはふだん旅行をめったにしないためなかなかこの話題に食いついていけず往生する。ほかの方の体験談を興味深く聞かせてもらっていると、そこから修学旅行の話になったのでぼくが中学だったか高校だったかの頃に東京ディズニーランドに行ったことや、そこから原宿に行って当時流行っていたタレントショップに行ったことなどを話す(田代まさしの店でマグカップを買ったりした。そのマグカップをいまでもぼくはだいじに使っている)。そうすると話にはずみがついて、楽しいひと時を過ごすことができた。

このZOOMミーティングは原則として日本人の英語学習者が主なので、したがって相手の発音も日本人特有の響きがある。したがって相対的に聞き取りやすく入っていきやすい。このミーティングに入り始めた当初、ネイティブの流暢な(ペラペラな)英語を期待していたぼくは肩透かしを喰らった気がしたものだ。でも考えてみればネイティブが英語で会話するところにいきなり入り込んで満身創痍(?)になるよりも、こうした集いに参加して徐々に経験値を積んでいくことがさらなる成長を約束するのではないか。すくなくともぼくはここに出入りすることで英語脳を鍛えられていると感じられるし、そんな環境を作ってくださっている方々には感謝の言葉しかない。

その後、10時より仕事に入る。昨日ぼくは20年ほど前の30代の頃のことを書いてしまったが、いま考えてもあの頃はまさにぼくの人生のどん底だったなとつらく感じられる。いまの若い人には信じられないことと思うけれど、ぼくがぼく自身の発達障害について正式にWAIS-IVというテストや面接を受けて診断してもらったのが33歳の時のことだった。女友だちの言葉が原因で当時通っていた姫路のクリニックでそうした診断を受けたのだった(その女友だち曰く「あなたがいままで発達障害を疑ったことがないなら、こんなに発達障害的なことはない」ということだった。バリバリに特性が出ていたらしい)。

発達障害に気づくまでにはずいぶん時間がかかったものの、思えば幼少の砌から自分がおかしな子だということはつねに自覚させられて、世間一般のシビアなものとは遠いもののそれでもいじめめいた目に遭ったりもしたし女の子に嫌われたせいでミソジニー女性嫌悪)や女性恐怖をこじらせて鬱屈した青春時代を過ごしたことを思い出す。そんなつらい10代、いまなら不登校や引きこもりという選択肢を選ぶこともできるのかもしれないが当時は両親が昔気質の人ということもあって許されず、だからもう心を殺して学校で死んだふりをして過ごした記憶しかないのだった。

そんな田舎町特有の閉鎖的な空気が嫌だったことと、当時勃興していた渋谷系の音楽にそそのかされたことや村上春樹ノルウェイの森』を読んで早稲田の学生生活にあこがれたことがあって東京の私大に入ることになったのだけど、そこでやっと狭苦しいじめじめした人間関係から解放されたかと思いきや、それまでコミュニケーション・スキルを磨かなかったことがたたって友だちもできず(なにせ「心を開いて打ち解ける」ということがどういうことかわからなかったのだ)、しだいに鬱にはまり込んで苦労することになる。

そして就活で失敗してこっちに戻ってきて、それからさんざんあって……30代のころはもう「死にたい」「もうじゅうぶんだ」とつぶやくアル中が出来上がっていたのだった。そんな自分に対する自罰的・自虐的な思念に耐えられず、Twitterで管を巻く弱虫に成り果てていたっけ。いや、そんなことをしているヒマがあったら小説の1編でも書くべきだったのだがぜんぜんそんなこともできず、「明日から本気出す」と息巻いて……そしてけっきょくやっていたことと言えば仕事して呑んだくれて酔いつぶれて寝ての繰り返しだった。

そして、職場で大問題を起こして入院することとなる。その内実はくわしく書けないが、当時mixiでつながらせてもらっていた友だちから転職を薦められたりしたもののなかなかうまく行かなかった。なにせ車を運転できないのだからこんな田舎町ではどうしようもない。さっき書いたように両親はニートになることを許してくれなかったので八方塞がりになって愚行に走ってしまったのだった。それで……その愚行の後職場に復帰することはできたものの、ほんとうに仕事や人生においてしあわせを見い出せるようになるまであと数年は待たねばならなかった。40歳の時までだ。その40歳の頃のことはまた別の機会に書くこともあるだろう。よく死ななかったものだ、と思う。

今日は5時まで仕事だった。その後図書館に立ち寄りポストコロニアリズムについての本を借りる。そして自室に戻り、ダニエル・ラノワやライ・クーダーなどを適当にSpotifyで流しつつ前に少しだけ書いた今福龍太の対談集『小さな夜をこえて』を読む。今福や彼に応える西谷修島田雅彦上野俊哉山口昌男といった知識人たちの視野の広さに唸り、彼らの意見にはかならずしも全面的に賛同はしないものの学ばせてもらうところが多かった。アメリカ中心で中央集権的に出来上がる世界の秩序に抵抗して、文化や政治において周縁的な立場から小さな声を上げていくことがだいじ、ということだろうか。今福たちのナショナリズムへの批判的な目線に対してはぼくは「そうは言っても『ホーム(家郷・国家)』はだいじではないか」とつぶやくしかないが、でもそれについてはおいおい考えたい。

20251112

いつも朝は7時にシャワーを浴び、そして前日に着ていた服を洗濯機に入れてまわして洗濯し、そして7時50分からはじまる英会話のZOOMミーティングに参加する。これがぼくの毎朝の段取りである。だがもちろん、人間なのでそううまくできないことだってある。今朝は起きたら7時20分ごろだったのでシャワーも洗濯もあきらめて、そのまま英会話のZOOMに顔を出した。まあ、そういうこともある。この時期はそんなに汗もかかないので、毎日洗う必要もない。でも裏を返せば毎日ぼくが洗濯機をまわしてしまうのは、洗濯物をある程度溜めてそして状況に応じて臨機応変に洗うということができないからだ。悲しいけれど、それが発達障害というものなのだった。

ともあれ、今日のZOOMミーティングは羽田空港だったかに建ったゴジラの像の話題が事前に設定されていた。ぼくは羽田空港にもゴジラにも興味がなく(なにせ『シン・ゴジラ』さえ観ていないのだった)それゆえに不安だったが、いざフタを開けてみるとはじめて参加される方の自己紹介が主だった話題となり、そこから派生してそれぞれのメンバーの自己紹介や健康状態などに話が派生して終わってしまった。こうした予期しない話題の転換もこのZOOMの醍醐味というやつで、さいしょは他のメンバーの自由闊達な英語にずいぶん悩まされたがいまではなんとかついていけるようになったと思う。

そして、ZOOMが終わった後に図書館に行き岸政彦の日記『にがにが日記』を借りた。岸政彦の本は実は小説もエッセイも読んだことがなく、ただ日記を読むのは概して好きなのでそれでこの本から攻めてみようかなと考えたのだった。その後近くにあるイオンに行きそこでしばし「自分時間」として『にがにが日記』と取り組む(BGMは昨日に引き続きキース・リチャーズなどのブルースを試してみることにした)。でも、なさけない話ながら5連勤の後だからか身体が重くうっすら疲労に伸し掛かられている気分はかくせない。

それでも、岸の文章はさすがでそんなふうに疲れていたぼくを読ませるだけの筆力があり、読みふけってしまう(ほかにも読みかけの本はあるが、この本は中座できないと思った)。彼がこの日記を書いていた時期は50代前半で、つまりいまのぼくとほぼ同じ年齢と見る。ただ、岸はその年齢において冷めておりこれから自分自身になにほどのことが成し遂げられるか(あるいはもうできないものなのか)見極めんとしているのが伺えた。その態度が大人だと思った。

ぼくはどうだろう。ぼくもこのまま生きて、そして20年か30年か経ったら老人になる。ヘタをするとこの世から消え失せてしまう……でも、それがわかっているならばぼくも岸のように自分の年齢(老い)と虚心坦懐に向き合い、そこから自分にふさわしい生活を導き出す努力をしてしかるべきなのだ。それなのにぼくときたらいまだに若いつもりでふるまって、恥をかいたりしている。これも発達障害が原因していると言うと笑われるだろうか。でも、正直なところぼくは1年後さえわからない。だってこの日記だってこんなふうにはじめるなんて自分でもわからなかったし……。

そう思えば5年後や10年後なんてもう未知の領域と高をくくってもいいのかな、とも思う。30代のあの日、もしぼくがここで書けない事情で死を選ぶ羽目になっていたら40代からはじまったジョブコーチとの出会いや英語のやり直し、そこから派生したさまざまな面白おかしいエピソードも体験できずじまいで死んでいたことになるわけだ。人生とは、かくも不思議なものだ。岸が卒然と書き記すこの言葉が実に襟を正させる、あるたしかな重みをともなったものとしてぼくには映る。

「いまの大阪での人生は、他の街で人生を送っていた別の俺が空想しているものなのかもしれないと、いつも思う」(岸政彦『にがにが日記』P.113)

その後グループホームの自室に戻り、昼食を摂りしばし昼寝をする。それでも、疲労がたたっているのか身体は重くどこにも行く気がせず、そんな重い身体をなんとか運んで本家のグループホームに行きおとといの書類にサインをする。その後手持ち無沙汰なままイオンにまた行き、そこでシー・アンド・ケイクやトータスなどシカゴ音響派の音楽を聴きつつ『にがにが日記』の続きを読む。これはかんぜんな好みの問題になるが、ぼくはこの岸政彦の日記には可能な限り作為を省いた(ひらたい言い方で言えば「わざとらしさがない」「自然体の」)音楽が似合うと思った。

その後、夜になり夕食を食べる。そしてしばし市役所に行く。そこで、先月国際交流協会が行ったイベントであるふれあい祭りについてあれこれ反省会と慰労会を兼ねて話し合い、楽しい時間を過ごす。その後こちらにまた戻ってきてharuka nakamuraの音楽を聴いたりしつつこの日記を書いている。ああ、この人生ももしかしたら夢なんだろうか。明日の朝起きたら、すべてが20年前のあの地獄の時期、酒を止めるに止められず宿酔いのふらふらする頭をもてあまして「死にたい」「生まれてくるべきではなかった」とばかり思っていたあの時期に戻っていたりするんだろうか。それくらい、いまの状況はぼくにとって幸せに感じられる……。

20251111

ぼくの仕事は肉体労働なので、弱音を吐くことはみっともないとわかってはいるもののなかなか5連勤ともなると(もう50代に差し掛かるということもあって)つらいものがある。肉体も悲鳴を上げ始めるし、精神面でもそろそろ休みがほしいと考え始めたりもする。今日は遅番明けで、うまく眠れたような眠れなかったような気分のままともかくも朝7時にシャワーを浴びる。その後洗濯機をまわし、昨日着ていた服を洗濯して7時50分からぼくがお世話になっている英会話のZOOMミーティングに参加する。そして英語脳を鍛えることで1日がはじまる。

今日、事前に与えられていたお題は世界各国のおいしいパンについて(日本のカレーパンもふくむ)だったが、いざブレイクアウトルームに集った面々で話をし始めると参加者のある方が切り出した彼女の家庭事情の話が盛り上がり、英語と日本語を駆使して盛り上がる(こうした脱線はもちろん主催側の望むところではないかもしれないが、ぼくとしてはこうしたハプニングも楽しめる度量を鍛えたいと思う)。もちろんその家庭事情の話を公の場で垂れ流すほどぼくは野暮ではないが、思えばぼくも両親に発達障害のことを話した時もなかなか納得してもらえず困ったことなどを思い出してしまった。

そこから、彼女の話題はいつしか絵画の話になる。彼女の勤める福祉施設でそうしたアートを手掛ける動きがあること、ぼくが描いている絵に興味を示されたことなど……実に濃い40分が過ぎ、その後精神的にスタミナをつけるためにイギー・ポップやストゥージズなどを聴いたりして出勤し、仕事を始める。5連勤目の最終日なのでこれをどうにかこうにかやり遂げれば明日は休み。身体は悲鳴を上げているが、そこをなんとかごまかして仕事に励む。

昼休みになり、先週から今週にかけて(つまり週末)まったく時間が取れずしたがって今晩に控えている英会話教室の宿題の英作文をなにも書けていないことに気づいた。しょうがないので適当な話題でいいやと安直に話題を捻り出そうとして……それで2026年の抱負をどうするかについて書くことに決めた。ただ、いまは仕事の疲れがまだ残っていて書けないので仕事終わりに書くことに決め、ぼんやりキース・リチャーズのブルース演奏を聴きながらくつろぐ。

ふと、2026年の抱負としてライフログをつけることを自分に課してはどうだろうかとも考えたりする。ぼくはさっきも書いたとおり発達障害者で、それに加えてがんらい「したいことしかしない」わがままな性分のせいもあって日記を満足行く期間つけられたことがない。なのだけど、たとえば今年は抱負として夏目漱石をあらかた読み尽くしたいと思ってはじめたもののけっきょく頓挫して終わってしまったので、自分にできそうなこととしてこうした「毎日完結」「一日一筆」的な抱負が似合っているかなと思ったのだった。

仕事が終わり、これでひとまずは仕事から解放されるとホッとひと安心。それで、イオンに行き英会話教室が始まるまでの時間を英作文に宛てる。そう言えばDiscordのとあるグループで企画されていたアドベントカレンダーの企画も申し込みをしたのだった(12月8日、ジョン・レノンの忌日に決まった)。こうして振り返ってみると英語にあふれた生活をしていることに我ながら驚くやら、その凝り性ぶりにあきれるやら。まあ、それでも英語が身についているかと言えば言えないところが情けないのだけれど。

その後、時間が空いたので今福龍太の対談集『小さな夜をこえて』を読み始める。まだ冒頭の2つの対談しか読めていないのだけれど、1995年という時点で早くも今福が(沼野充義との対談で)英語という言語の支配性とそれに対する抵抗の動きについて語っているのを読む。さすがにこの時代にいまのような移民がたくさん日本に押し寄せる光景までも(頭でっかちな観念遊戯ではなく、肌にひりひり来るようなリアリティをともなった語り口で)予見はできなかったかもしれないが、しかしいま読んでも教えられるものがあると見る。

そして7時になり、英会話教室が始まる。今日のレッスンは自分たちの推薦するお目当ての旅行スポットについて紹介し合った後に形容詞を使った文章を作ってみんなで楽しむというのが主な内容だった。ぼくもいきおい、いつも行きつけのブックカフェを紹介したりして熱が入ってしまう(ただ、ふだんめったに旅行も遠出もしないのでこの話題になると聞き役に回らざるをえないのがなさけない話だ)。その後ゲームに興じ、戻ってきて夕食を摂った後に『小さな夜をこえて』の続きを読む。日本にもかくじつに「英語化の波」が押し寄せて、日本語一色で塗り固められたかのようなシーンを変えようとしている。ぼくが大学生のころとくらべるとえらい違いで、これからどうなっていくのかな……と物思いにふけってしまった。

20251110

またしても今朝方早く起きてしまい、その後二度寝して調整しようとするも寝付けず苦労する。それでも7時になるとシャワーを浴び、洗濯機をまわして昨日着ていた服やバスタオルの選択をおこなう。その後、7時50分から英会話のZOOMミーティングに参加して英語脳をきたえる。今日の話題はアメリカのZ世代が節約のために冷凍食品をたくさん利用する傾向があるというニュースがたたき台となって、そこから冷凍食品やレトルト食品について話題が発展していった。

そこで、ぼく自身の生活スタイルについても訊かれたので正直に過去に自炊を学ぼうとしていたことがあった話をして、でもけっきょく味噌汁1つ自分では作ることができないまま終わったことを話した。言い訳になるけれど、でもぼくの勤務体制は朝の勤務と夜の勤務が入り乱れて成り立っているのでなかなか決まった時間をみつくろって料理に宛てるということができないのだ。せいぜいお米を研いでそれを炊飯器にかけて炊くくらいのことしか身につけられていない。情けない体たらくではあるけれど。

それで、冷凍食品やレトルト食品を食べたら節約になることもわかってはいるものの気分の問題としてどうしてもコンビニの出来合いの弁当をお昼に食べてしまうことなどを話す。こうした無意味なこだわりについてぼく自身恥ずかしく思わなくもないのだけれど、でもこだわってしまうのだからしょうがない。そんなこんなでミーティングはつつがなく終了した。その後朝食を摂り、グループホーム本家におもむく。

本家では9時半から相談支援事業所の方との面会が控えており、そこで相手の方の質問に答えて自分の日々の暮らしの生活ぶりを語る。グループホームの副管理者の方も出勤されていたので3人であれこれ話し合う。事業所の方が、ぼくの生活スタイルについて「忙しいんですね」「予定をいっぱい入れておられるんですね」と驚いておられた。なにせ、毎朝(大晦日・お正月関係なく)英会話のZOOMミーティングに出て、火曜日は英会話教室に通い水曜日は行けたら断酒会に行き、木曜日は夜に友だちと毎週恒例のZOOMミーティングをやる……というのだからあわただしく日々は過ぎていく。

でも、それでもぼくの見方からすると「こんなにヒマでいいのかなあ」と思ったりしてしまうというのもたしかな話だ。いや、ヒマはヒマでけっこうなのだけれどいざヒマな時間帯が眼の前にせり出してしまうとそれをどうしのいでいいかわからず、やけっぱちで本を読んで過ごしたりふて寝をしたりするのが関の山なのだった。そのことは副管理者の方も理解されていて、「予定がないとかえってつらいということですね」と助け舟を出してくださった。

その会合が終わった後、食堂をいつものように使わせてもらってそこで自分だけの時間を過ごす。今日はカバンの中に昨日から読みかけていた阿久津隆『読書の日記』を入れていたので、音楽としてジャジーハウス・ミュージックをあれこれ聴きつつ読みふける。ぼくは実は日記を読むのが好きで、思いつくだけでも過去に永井荷風断腸亭日乗』をめくってみたり沢木耕太郎『246』や横尾忠則の日記なんかを読んでみたりしたこともあった。この阿久津隆の日記もこれで何周目になるかわからないけれど、あいかわらず読ませる芳醇さを感じる。

日記はその性質上、これといったわかりやすい腑に落ちる「スジ」「プロット」を持たない。ただ日々の記録が1日完結で釣瓶打ちに記され、それが続いていくだけだ。だから小説を読むようなカタルシスを得ようとしたら空振りにおわるだろう。いや、そこにはなんら教訓さえないかもしれない。日々のできごとの記録だけが淡々と記されて、続いていく。でも、それがクセになるのだからあなどれない。

それでふと思い出したのだけど、この日記のタイトルをぼくは「単純な生活」としようと思っている。これはぼくの好きな作家(なんでも「内向の世代」の一員らしい)の阿部昭の代表作のタイトルを拝借したもので、さいしょはぼくの生活があまりにも代わり映えがしないものなのでその単調さを居直る気持ちで、いわばやけっぱちでつけたのだった。でも、阿部昭のこの『単純な生活』はおもしろい小説なので、またいずれ紹介できたらと思う。

昼食を摂り、1時から仕事をはじめる。そこで、1件ここで書けないことがらが起きフラッシュバックにさいなまれたのでそそくさと頓服を飲み、心を落ち着かせるべく奮闘する。その後、休憩時間になり休憩室におもむくも薬の副作用の眠気がたたったのかなにもメモパッドに書くべきことを思いつかず苦吟する。職場の人にはこのフラッシュバックのことはすでに話しているが、なかなかぼくの語彙力不足もあって伝えられていないと感じる。ともあれ、なんとか退勤時間まで仕事をこなしてそしてグループホームの自室に戻ってきて、くつろいだ後この日記を書いて1日が終わった。

20251109

なかなか寝付けず、頓服を呑んで不眠からくる覚醒状態をしのぐ。朝7時、洗濯機をまわしてシャワーを浴びる。7時50分にいつもの英会話のZOOMミーティングに参加し、そこで気心知れたメンバーたちと英語でワイワイ話す。毎週日曜日はフリートークの日でとくに決まった話題は設けられておらず、したがってこちらの好きなことが話せる反面事前に準備することができないのでぶっつけ本番で英語で話すしかなく、なかなか手ごわい。今日はぼくがいつも英語学習の媒介を務めてもらっているDiscordというプラットフォームの話をしたり、HelloTalkアプリの話をしたり(相手の方が愛用されていると聞く。試してみたい)、そんな感じで過ごした。

この英会話のZOOMミーティングはとくに参加に関して資格も要らず、無料で毎朝決まった時間におこなわれる。過去、英語を学びたいという意欲はあったものの田舎暮らしの悲しさでなかなかリアルの英会話教室に行く時間とカネがなく、それで困ってなかば諦めかけていた時にひょんなことから知ってそれで参加するようになったのだった。ぼくは車を運転できないので、だからTOEICとも無縁に生きてきてしまって自分の英語力について見極めができていないのだけれど(ぼく自身は"intermediate"、つまり中級者かなと思っている)、このZOOMでは初心者であっても相手と支え合って英語力をともに鍛えようという参加者の方々の心意気を感じる。ありがたいと思う。

そして10時から仕事に入る。昼休みをもらい、そこで弁当を食べた後にいつものようにぼくが愛用しているマルマンのメモパッドにフリクションペンで英語であれこれメモを書いていく。この英語メモの習慣を続けてきて、今年でかれこれ5年になるだろうか。過去、コロナ禍のパンデミックの時期に軒並みオフライン(対面)での英会話教室や英語がらみのイベントが自粛の憂き目に遭い、それでこのままでは英語が錆びついてしまうとぼくなりに危惧してそれではじめたのだった。さいしょは英語がなかなか出てこず戸惑いや苛立ちがあったのだけど、いまではなんとかスムースに英語が出てくるようになった。

ひとしきり英語で思っていることを「吐き出す」ことに務め、その後図書館のサイトをスマートフォンで開いてそこで貸出期限を延長し、借りたい本を予約する。今福龍太が書いたクレオールにかんする本でも読んでみようか……なんだかこうして言葉にすると恥ずかしいけれど、でもぼくはがんらいきわめて単純で素直なところがあるので(まあ、根が単細胞なのだろう)英語であれこれ外国のことを勉強したり日本を「再発見」したりする過程でこうして視野が広がったというところはあるのかもしれない。それもまた英語学習で得られた思わぬ利得だ。

そこでふと、来週日曜にぼくが所属している発達障害関係の自助グループの少人数でのミーティングが控えていることを思い出し参加の申し込みをする。そこで可能なら、ぼく自身がここさいきん悩まされてきたフラッシュバックの件を話そうと思った。その後、時間がある程度余ったのでカバンの中に入れていた温又柔のエッセイ集『台湾生まれ 日本語育ち』をすこし読む。温又柔の真摯な態度から綴られる芯の強い日本語を堪能しつつ、ぼくと言葉の関係についてあれこれぼくなりに考える。ひいては、日本という国とぼく自身の関係について。そこには主従関係があるのか。あるとしたらどちらが「主」なのか。

今年、ぼくが衝撃を受けてともかくもその切れ味に唸った言葉として「日本人ファースト」というものがある。愛国心をどう持つかという問いはもちろんいまに始まったことではなく、ぼくが若い頃だって問題にされていたはずだ(小林よしのり宮台真司といった論客もその愛国心と自尊心のあり方をめぐって議論を交わしたと記憶する)。ぼくは発達障害者で、その発達障害にかんしてひどいコメントをしていたというのが原因で参政党を支持できないが、ただ彼らの言葉や政策がある程度のアクチュアリティ(有効性)を持つのもわかる気がするだけに剣呑だ。彼らをただのポピュリストと見なしてナメてはいけないと思う。

そんなこんなで退勤時間まで仕事をこなし、そして帰宅する。今日の晩ご飯はカレーで、それを食べた後に温又柔『台湾生まれ 日本語育ち』の続きを読む。ぼくは典型的な日本人で、日本語という「国語」の中で生まれ育ちそれにたいしてとくに違和感もなく習得することもできた。温又柔の文章からはそうした「国語」がいかに政治性をはらむものかが見えてくる。彼女の小説を読み、そこからあらためてなにかを掴むことができたらと思った。その後、夜も更けて手持ち無沙汰になり、ジャジーハウス・ミュージックを聴きつつ阿久津隆の『読書の日記』の最初の部分を再読したりしていたらなんとなく1日が終わってしまった。

20251108

遅番明けの朝、それでも7時にシャワーを浴びて洗濯機をまわし昨日の服を洗濯する。その後、7時50分から英会話のZOOMミーティングに参加してそこで英語であれこれやり取りする。今日のお題はアメリカにおける外国からの来訪者のあつかいで、安全対策(テロなどの重大犯罪にたいする対策)と個人情報の管理にかんする話題からはじまり日本のマイナンバーカードや監視カメラをめぐる話題へと自在に発展していく。基本的にはこのミーティングは日本の英語学習者たちが主に集うのだけど、今日は中国人の方が参加され彼女の流暢な英語にさいしょは戸惑いもしたけれど学ばせてもらうことができて、参加して良かったと思った。

ぼくはSNSはおもにFacebookやMeWeを使っているのだけれど、そのFacebookでひょんなことからこの毎朝のZOOMミーティングの集いについて知り、参加するようになったのだった。英会話はただ英語力を磨くだけにとどまらず相手との呼吸・間合いをどう取るか、相手の言葉を汲んでそこからどう自分の意見を述べるか、それが非常にむずかしい。ことにぼくは発達障害が影響していてそのせいで雑談ひとつうまく転がせられず、恥をかくこともしょっちゅうだ。こんかいのテーマ、語りにくいものだったがツボにはまると「監視社会が」「プライバシーの侵害が」と自説を語ることに固執することになる。それもあって、今日はどう自分をセーブして相手の言葉に虚心に耳を傾けるか試されていたようにも思った。

10時より仕事に入る。午前中、ふとこの季節ならではのことがらについて考えた。というのは年末のこの時期はぼくの職場は繁忙期に入り、そのせいでなかなか休みも取れず働くことになる。そうなるとどうしても職員の心は殺伐とする。30代のころ(だからいまから20年ちかく前のことになるか)、その殺伐とした環境においてぼくは発達障害のことを訴えてそれで職場に理解を求めたりもしたのだったが、当のぼく自身もなにせ診断されたばかりで自分の特性もわかっておらず、したがってそんなことを「説明」するのもどだい無理な話で苦労したりした。

本人がそんな無知蒙昧な体たらくだったのだから、会社も「アスペルガー症候群?」ときょとんとしていたのではないか(いまから20年ちかく前はまだ「ニューロダイバーシティ」も「共生」もそんなにポピュラーな概念ではなかったはずだ)。それで、会社とぼく自身の姿勢に齟齬が生じてそこから破綻が来て、ここでは書けないことが起きてしまったりもしたのだった。それからかれこれ20年ちかく……ずいぶん生きたものだ。病院のベッドで「もう人生終わったかなあ」と思ったことがなつかしい。

あのころのことを冷静にいまから振り返れば、サポーターの不在が大きな問題だったということに尽きるのだろう。会社は会社の指針・方針があり、ぼくはぼくでそれにしたがってぼくなりに発達障害を押してけんめいに働いたことはたしかで……ただ、そのあいだに入ってくれる施設ないしは個人がいなかった。昨日入っていただけたジョブコーチという制度を知ったのも、メンターとなる方との出会いも40になってからのことで、そう思えばひどい時代を生きたものだとつくづく思う。

まあ、過去は過去だ。40になり、そのメンターとの出会いにはじまり自助グループの結成に立会、その方の薦めで英語のやり直しに踏み切って……そして10年。なんでもこうして継続していれば思わぬ「ぼた餅」が落ちてくるものなのだなあと思った。そんなことを昼休み、ふだんズボンのポケットに突っ込んでいるメモパッドに英語でしたためる。この英語メモはあの思い出したくもないパンデミックの時期(軒並み英会話教室が「自粛」の憂き目を見た時期)にそれでも英語をやっておきたくてはじめたことだが、性に合っているということだろうかいまでも続けられている。もうだいぶ、「英語脳」で考えることにも慣れてきたようにも思う。

それなりのハードワークのあと、グループホームの自室に戻ってきてそして夕食を摂る。昨日の疲れからか横になったらうとうとしてしまった。起きて、そして何致和『地下鉄駅』を読み終える。「駅員が自殺志願者の数をどう減らすか現場で汗をかいて考える」という難物なテーマに真正面から挑んだ心意気を大いに買いたいと思いつつ、主人公(45歳・男)のロマンスやその他の細部に無理があるようにも思い素直に乗れず、中盤から精彩を欠いた印象がある。ゆえに、「志の高い失敗作」とぼくは自分の中で位置づけたく思った。

ただ、それでも「彼ら(自殺志願者)と我々を隔てるものはなにか」「その隔たりを超える言葉はあるのか」といった問題に思索を誘うところは無視できないとも思う。いま、ぼくは生きている。いまのところ死に誘われたりすることもない。それはなぜだろうか……とあれこれ考えてしまった。