その後イオンに行き、そこの未来屋書店において前々から興味を惹かれていた1冊である永井玲衣『世界の適切な保存』があったので、さっそく買い求める。彼女の本は前著にあたる『水中の哲学者たち』も実に読み応えのある、陳腐な言い回しを使うが「スルメのように」あとからじわじわ味わいが感じられて末永く読み返したくなる本だった。日常生活における豊富な哲学的アイデアの数々が詰まった、得難い1冊とぼくは評価する。たとえば彼女はソーシャルメディアやテレビ、世間などにおける人々あるいは世界そのもののささやき・つぶやきに注意深く耳を傾けてそこからぼくなどがついつい無視・シカトしがちな細部を拾おうとする。人は、このぼくの意見が哲学的と評価してくれる(たぶんそれ相応の深みをそなえている、ということなのだろうと思う)。でも、実はぼくは大学などで哲学を本腰を入れて・本気で学んだことはまったくもってないのだった。文学ばかり読んでいたのである。あるいはせいぜい宮台真司や大澤真幸の社会学をかじったくらい。
思い起こせば……そんなぼくが変わったのは40になってからだ。その歳、ジョブコーチとはじめてお会いしてそれから発達障害を考える自助グループの結成に立ち会い、月イチのミーティングに出るようになった。その後そのジョブコーチや友だちから「あなたの考え方はとても哲学的だ」と言われるようになり、そこから(なにせこんな単細胞で直情的な人間なので)「哲学か……」とあれこれ考えるようになりそれまで興味があった哲学にも果敢に(?)足を踏み入れるようになった。でも、笑われるかなとも思うがぼくにとっては必ずしも「プロの」哲学者たちばかりがぼくをして哲学に導いたわけではない(ので、ぼくはいまだに自分の考えが「モノホン」「純粋」な哲学とは思えない。混ぜものに満ちたフェイクだとさえ思う)。ウィトゲンシュタインはそれなりにかじったが、あとは村上春樹やぼくが敬愛しているミュージシャンであるモーマス、日野啓三や保坂和志、沢木耕太郎や三田格といった書き手から影響を受けたと思う。
Twitterにて、面白い意見を読む。「女性はマイノリティとは言えない」という意見だ。いや、これはマイノリティを数の規模の多い少ないで定義づけたものなのか否かわからない。この意見も笑うことは簡単だし、吟味・批判することも大事だろう。ぼくもつい脊髄反射的・機械的に批判を書いちゃいそうになる。でも、真面目に書くならぼくは1人の発達障害者として、この発達障害的特性や個人的な人間性・性格、あるいはもっとさまざまな因子の絡まり合いによりほかでもない女性のクラスメイトから嫌われいじめに遭ってさんざん罵倒されたりにらみつけられたりしたので、この意見に「あわや」条件反射的/本能的に、つまりは批判的・多角的な吟味をすっぽかして「いいね」しそうになるのもたしかである。
LINEのとあるオープンチャットグループでこの話題を投稿し、しばし他の方と議論を楽しむ。むろん、歴史をひもとけば女性たちはそれこそ血のにじむ思いどころか命さえかけて、各々の生を謳歌し男性と平等に・真の意味で人間らしく生きようとあれこれ奮闘してきたことはたしかだ。これは歴史が語っていることであり、選挙権にしても男女雇用機会均等にしても、昨今の「MeToo」にしてもそうした奮闘の産物である。だが、ぼくだって「キモい」「弱者男性」としてぼくの意見を物申したい。いやもちろん、この「弱者男性」だって実は「男性上位」「マッチョイズム」の恩恵を受けていたはずで、だからたどり着くところは「男性社会」そのものの見直しという話になるのかなと思う。
その後、消灯時間までダラダラ時間をつぶす。読んだのは日野啓三のエッセイ『書くことの秘儀』だった。とても明晰で哲学的なアイデアがわんさと詰まっており、剛直な論理に唸る(ぼくのクニャクニャした、つかみどころのない論理とは大違いだ)。その間はずっと細野晴臣やトゥー・ローン・スウォーズメンなんかを聴いて過ごした。